山代巴さんは1945年8月1日に和歌山刑務所の門を出た。栄養失調で腎盂炎に罹り、かろうじて生き延びた末の出所で、生家にたどり着いても床に伏せる日が続いた。
山代さんの生家は広島県東部の芦品郡にあり、今は府中市栗柄町になっている。この山あいの村にも8月6日に広島が大変なことになったという話はすぐに伝わってきた。村の近くに福山市と県北の三次市を結ぶ福塩線の新市駅があるが、家が駅前の旅館だった串田弘子さんの手記によれば、6日にケガをした兵隊が一夜の宿を求め、翌日には包帯をした人が広島から来て「大きな爆弾が落ちて、広島市内は全滅だ」と言うのだった。(串田弘子「忘れられない弟の最期」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
山代巴さんの家の隣に住む人はすぐに息子を探しに広島へ出た。息子は「広島地区第23特設警備隊」(通称「芦名部隊」)の一員として5日から広島市内で建物疎開作業をしていたのだ。作業場所は当時県庁があった水主町(かこまち 現 加古町)のあたり。爆心地からは1kmないくらいだ。全滅と思われる。山代さんは、虚しく帰ってきた隣人から市内の惨状を聞いた。
…どの川も死体が一杯、流れに乗って橋の脚に頭をぶつけてぐらりと向きをかえるその顔は二目と見られるものではなかった。己斐も似の島も、被爆者が寝かされとるところは三日かけてみな歩いたが、これはもう口に出して言えん」と言って泣いていた。(山代巴「占領下における反原爆の歩み」『山代巴文庫 原爆に生きて』径書房1991)
「地区特設警備隊」は1945年に編成された臨時の部隊で、隊員は年配者と徴兵前の16、7歳くらいの若者だった。任務は「本土決戦」でのゲリラ戦というのだが、広島県では各地の特設警備隊が交代で広島市内の建物疎開作業に出た。8月6日には「芦名部隊」の他に、世羅郡の「世羅部隊」、甲奴郡と神石郡の「甲神部隊」、今の竹原市の「賀茂部隊」、今の東広島市河内町の「豊北部隊」などが市内に入っていた。これらの部隊も全滅に近い被害だったろう。
こうして原爆は広島県全域に被害をもたらしたが、その事実はなかなか表に出てこなかった。山代巴さんが「甲神部隊」の遺族を訪ね歩くようになったのは1953年のこと。そして1954年のビキニ事件を受けて原水爆禁止署名を集めて回る中で山代さんは日野イシさんと出会い、代表作『荷車の歌』が生まれるのだが、その中に広島市から遠く離れたところでの戦後すぐの状況を知ることができる。
1950年の春、『荷車の歌』の主人公セキさんの夫茂市が動けなくなった。診てもらうと脾臓と肝臓がひどく腫れていた。
…熱は四十度に上って、血を吐き鼻血を出し、この病状を白血病と同じだと気づく人もなければ、もしやこれは、ツル代を探して原爆の落ちたあとの広島を、三日も歩いたからではないだろうかと、疑ってみる人もいない中で、死んでいった。(山代巴『山代巴文庫 荷車の歌』径書房1990)
放射能の存在が隠されてしまえば、なんで死ななければならなかったのか、わかるはずもない。