立ち上がった人たち26 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島の原水爆禁止署名運動は、婦人会にPTA、労働組合や文化団体、宗教団体など多くの団体が参加して取り組んだ。そのころ県東部に居を移していた山代巴さんも署名用紙を持って県北の村々をまわっている。

 山代さんは1952年春から広島市に移り住み、詩人の峠三吉さんを助けて、子どもを主とした原爆被害者の詩集『原子雲の下より』や手記集『原爆に生きて』をつくるのに没頭した。『原爆に生きて』の仕事が終わり、そして1953年3月10日に峠三吉さんが亡くなると山代さんは広島市を去る。農村でどうしても取り組まなければならないことがあったのだ。

 1952年12月、「原爆被害者の会」が困窮する原爆被害者への救援を呼び掛けた。すると県北のいくつもの婦人会から手が差し伸べられ、たくさんの米や餅が届けられた。「原爆被害者の会」の若い事務局長川手健さんは、そこに「民衆の美しい人間愛」を感じずにはいられなかった。(川手健「半年の足跡」原爆被害者の手記編纂委員会『原爆に生きてー原爆被害者の手記―』三一書房1953)

 しかし、山代巴さんは手放しで喜ぶわけにはいかなかった。「立田松枝」という仮名にして多田マキさんが立ち上がるまでを描いた「ひとつの母子像」で知ることができる。1953年の正月のことだった。県北のある町から餅を背負ってやってきた婦人会の人たちが、困っている人の家を慰問したいから案内してくれと言ってきた。それで市内のあちらこちらにある原爆被害者の住む小屋へ案内すると

 

 ところがこの恵み深い慰問者達は、目の前の最悪の暮らしぶりに目をつむるどころか、もっとみじめな所へ案内してくれといい、これ以上ひどいところはないと思われる小屋の前で、「私らも苦労しよるが、私らよりもっと苦労しよる者もおるんじゃけえ、不足をいわっと働こうで」と互いを慰め合った。(山代巴「ひとつの母子像」『この世界の片隅で』岩波新書1965)

 

 山代さんはそれを聞き逃さなかったのだ。「上見て暮らすな下見て暮らせ」が染みついたままでは、人の心と心がつながるはずもない。「下」に見られた人は卑屈になって閉じこもるか、あるいは反発するだろう。一方、「下」に見た人たち自身も周りから抑えつけられていることをわかっている。でも、自分たちはまだマシだと慰めるだけで立ちあがろうとはしないのだ。それは山代さんが小さい頃からずっと見てきた現実だった。

 村に生まれ、村に育った山代巴さんは、それでも村に絶望することなく、村の女性たちと共に考え、共に目覚め、共に立ち上がっていく道を求めた。それがそのまま、山代さんにとって「反核平和」への道筋だった。

 山代さんは村の女性たちの現状を当時こう見ている。

 

 私どもひとりひとりは、まるで袋の中のねずみのように周囲からとりかこまれて孤立している。つまり周囲が監視し干渉している。これでどうして団結できようか。お互いに自分の職場や日常生活をふりかえってみると思いあたるところがありはすまいか。(山代巴「現在の日本のなやみと女性」『広島教育』1953 『山代巴文庫 荷車の歌』解説より)