8月6日の朝まで、森滝市郎さんは学生に竹槍500本を作らせることになんの疑問も感じていなかった。おそらく、江波の造船所に何百人もの中学生が動員されて人間魚雷「回天」の部品などをつくっていたこと、いつ空襲があってもおかしくない市の中心部へ8000人もの国民学校高等科、中学校、女学校の1、2年生が建物疎開作業に動員されていたことにも疑問を感じていなかったのではあるまいか。森滝さんは当時44歳。
私のような年令の者が、あの戦争時代の一番働き盛りの人間ですから、日本をあんなひどい目にあわせてしまった。あんな大まちがいの戦争をやってしまった一番責任を感じなきゃならない年令層なんです。(森滝市郎「ヒロシマの原爆」『核絶対否定への歩み』溪水社1994)
だけど、「私は元来書斎で研究しておれば済む男なんで世間を知らなかった」と自らを省みる。しかしいくら平身低頭して赦しをこうても、森滝さん自身、それでおしまいにするわけにはいかなかった。罪を悔い改めるためには、人として新たな道を歩むことを宣言し実行しなければならなかった。森滝さんは考えに考えたという。
あの恐ろしい原爆惨禍の状況を思い浮かべながら、私はこんな恐るべき兵器を作り出すようになった近代の文明は同じ方向をとりつづけてもよいのか、同じ方向をとりつづけたら人類は自滅するより外ないのではないか。何かちがった新たな文明の方向はないのか。このような、素朴な、しかし真しな文明判断をいだいたのであった。(森滝市郎「愛の文明—広島からの提言—」1987『核絶対否定への歩み』溪水社1994)
廃墟から立ち上がって平和な街、平和な国、平和な地球をつくっていくには、もう二度と悲惨な戦争を起こさないための政治のあり方を考えることが大切だ。貧困や差別に目をむけ経済や社会の有様を問うていくことも大切だ。しかし森滝市郎さんは倫理学者だから、核の時代にあって一人ひとりの人間としてのあり方を問うことこそ森滝さんに課せられた使命だった。そしてそれは、森滝さん自身の、もう何があっても揺るがない心の拠り所を見つけることでもあった。
入院中の半年間、森滝さんは釈迦、キリスト、孔子の教えを改めて学んだという。そしてその結論は、三人の教祖は誰も「力の原理」を説いてはいない、一致して「愛の原理」を説いているということだった。
力の文明の根底には征服・支配・抑圧と隷従・差別・無権利の対立関係がある。愛の文明は地球上の人間の平等共生の上に築かれる。殺し合うのでなくて生かし合い、奪い合うのでなくて譲り合うて「万人同胞」(Universal Brotherhood)たる所に実現される文明である。(「愛の文明—広島からの提言—」)
森滝さんは、「愛の文明」はマハトマ・ガンディーの「非暴力・不服従」の精神によって実現されるとも述べている。征服・支配・抑圧という「力の文明」は今、核兵器を持つまでになった。それに抗う「愛の原理」による運動はなんと険しい道を歩まねばならないことか。それでも森滝さんは決意した。