原爆で重傷を負った森滝市郎さんだったが、8日になると市内の惨状が少しずつ伝わってきた。
疎開作業の為県庁付近出動整列中の男女中等学生数千名がぎせいとなりしは最もひさんなり。一中二中の一年生授業中に校舎とうかいして相当数ぎせいがありと。(森滝市郎「さいやく記」『広島県史 原爆資料編』)
情報に不正確なところはあるが、大変な数の子どもたちが命を奪われたことは間違いなかった。教師である森滝さんはさぞや心を痛めたことだろう。しかし命が助かった子どもたちも、それで万事めでたしというわけにはいかなかった。原爆だけではない。原爆に遭う前から、子どもたちはその人生を傷つけられていたのだ。
当時、三菱重工広島造船所には森滝さんが引率する広島高等師範学校2、3年の学生のほかに、修道中学、造船工業学校、松本工業学校の生徒なども大量に動員されていた。修道中学4年生の時に原爆に遭った加藤久男さんの手記がある。
造船所では、一万トン級の貨物船を建造していました。私は第二船殻穴あけ工という、貨物船の外壁などをつなぐのに鋲でとめるため、鉄板に鋲を入れる穴を開ける仕事をしていました。広い砂場に並べられた台の上に鉄板が置かれ、そこに上がりエアードリルで鉄板に穴を開ける仕事でした。工場の建物の外での仕事なので、夏は鉄板が焼けて熱くてたまらない、冬は海の方から吹いてくる海風が冷たくてたまらない、大変つらい思いをしながら仕事をしていました。(加藤久男「教師になった元軍国少年の被爆体験」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
加藤さんは、中学3年生になると学校での授業がなくなり、ずっと造船所で働かされ、そして4年生の夏に原爆に遭った。勉強はできず、仕事は辛く、育ち盛りなのに食べ物は不足した。それでも加藤さんは幼いころからの夢が軍人になることで、中学に入る頃は江田島の海軍兵学校に憧れていたから、文句の一つも言わず、がむしゃらに働いたという。
私の父などは、心のうちでぶつぶつ文句を言っていたと手記に書いている。父は崇徳中学4年生の時、動員先の三菱重工広島機械製作所で被爆しているが、その8月6日朝のことだった。
その日の先生はどうしたことかひどく機嫌が悪かった。「この決戦下に遅刻するとは何事か、君達はたるんどる……」叱りつける先生に、勿論、抗弁はできない。胸の中で反抗するだけである、「先生たちはええのー、授業することはいらず、作業もせず、事務所の中で一日中何をしているんだろう。ちったあ現場へ出て、酸素ボンベでも担いで手伝ってくれりゃあええのに」(精舎法雄「火焔―私の原爆体験記―」1990)
しかしそんな父も、原爆に遭うまでは、戦争に負けるとは夢にも思っていなかった。物心ついた頃から、日本は必ず勝つということしか教えられていなかったのだから。