立ち入り禁止の芝生広場
丹下健三さんは「原爆死没者慰霊碑」を設計するにあたって、日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチさんからアドバイスをもらっていた。当時丹下さんのもとで仕事をしていた大谷幸夫さんが証言している。
――碑前に段差を設けたのは、ノグチ氏から丹下氏への提案だったようですね。
碑は平面にあるより、視線の上にある方が力を伴って目に迫る。祈りの空間の中心となる碑を「舞台」、周りの広場を「座席」とイメージし、設計途中で段差を加えた。ノグチ氏が先生に提案したことも覚えている。(「中国新聞」2009.7.17)
1947年8月6日、原爆慰霊碑が除幕され、その前での初めての平和式典が開催された。
平和宣言
時は空しく過ぎるものではない。7年の間、私たちは心にうけた恐ろしい傷あとをじっとみつめてきた。思えば人間の犯しうる過失の余りにも深刻なのに戦りつせずにはいられない。
けれども私達は人間の善意と寛容とを信じている。
己の尊厳を汚すことなく、むしろそれを生かすことによって、かえって世界に通じる道のあることを信じたい。
ひとりの心の中に愛情の火を点じ、ふたりの心の中にそれを受けつぎ、やがてはそれがひとつの聖火へと燃えつづけるとき、きっと世界は良心の環によってひとつに結ばれるに違いない。
私達は素直に反省し、このことを個人としての、また市民としての責任において考え、かつ実践することを尊い精霊たちの前に誓うものである。
1952年(昭和27年)8月6日 広島市長 浜井信三
「平和宣言」は慰霊碑の碑文にある「過ちは繰り返しませぬから」に沿って、人類のおかした恐るべき過ちへの反省と、世界平和にむけた一人ひとりの実践の誓いを述べている。ただしこの誓いは「尊い精霊」に向けられたもの。ここに広島平和記念公園は「ヒューマン・リレーションズのコア(人々が結びつく拠点)」、「平和を創り出すための工場」から「慰霊」の場に転換され、「原爆死没者慰霊碑」はヒロシマの祭壇となったと言えよう。
何が問題かといえば、今生きている人間が主人公でないということだ。1952年8月6日、慰霊碑の背後に張られた幕の向こうにはバラックがひしめいていた。そこに暮らすのは貧困や病気に苦しむ人たち。1948年に国連総会で決議された「世界人権宣言」は、その前文に、人権と平和が切ってもきれない関係にあることを謳っているが、広島市にとって公園内のバラックとそこに生きる人たちは、排除の対象でしかなかった。
そして浜井市長のあとを受けた山田節男市長は核実験の即時全面禁止を訴え続けた市長として知られるが、1967年7月の所信表明演説では、「平和記念公園を中心とする聖域地区を設定し、施設管理に一段の工夫を加え、原爆死没者の霊を慰め、世界平和祈願の一助とする」と述べている。 (広島市「平和記念施設保存・整備方針 第3 平和記念施設の現状と課題」2006)
こうして広島平和記念公園は「聖地」と呼ばれるようになった。市民の集会は禁止され、芝生広場でくつろぐことも禁止され、ただ8月6日の式典を厳粛に執り行うことが最優先されるようになった。
