吉川清さんは手記にこう書いている。
一九六三年の夏になると、原爆ドーム下の私のバラック小屋は取り壊しにあう。〈平和都市建設法〉ができてから十四年が経っていた。平和公園は整備されると、聖地といわれるようになった。もはや、人の住む所でもなければ、ましてきたないバラック小屋など建っていてはならないのであった。日雇いが二、三人やってくると、またたくまに、私のバラックはこわされてしまった。七月二二日のことであった。平和都市建設法は被爆者残酷法となったのである。おまけに、聖地内では商売もまかりならぬ、というのであった。私は住み家と共に職業も失うことになった。(吉川清『「原爆一号」といわれて』ちくまぶっくす1981)
産業奨励館(原爆ドーム)の北隣で自転車卸業をしていた川本福一さんのような地権者であれば、長年住んでいた土地から追い立てられても代わりの土地は一応用意してもらえた。けれど吉川さんのバラック小屋は公園予定地に建てられた「不法占拠」の建物だったし、河本一郎さんは、やはり「不法占拠」の長屋の一借家人にすぎない。住み家を追い出されても吉川さんや河本さんには何の補償もないのだ。そして日雇い仕事で生計を立てる河本さんなどは、そのわずかな収入では新しい住居もなかなか見つからなかった。そんな人たちが広島にはたくさん暮らしていたのだ。
吉川さんは1951年ごろすでに被爆者の窮状を直接浜井市長に訴えている。しかし市長の返答は、広島市はようやく復興の途についたばかりで、被爆者の救済まではまだ手が回らないというものだった。被爆から6年経っても原爆の被害者は放置されたままという情けない話だが、これは広島市より国の責任が大きかった。
当初、原爆で全て破壊され何の財源もなかった広島市にとって「広島平和記念都市建設法」は「打ち出の小槌」のように思えたという。この法律では、国は広島の都市復興計画に基づいて「事業の促進と完成とにできる限りの援助を与えなければならない」とあり、また土地など国有財産の無償譲渡もできると定められていた。
ところが、「広島平和記念都市建設法」ができた同じ1949年、当時の猛烈なインフレを抑えるためアメリカの指示(ドッジ=ライン)によって財政支出が大幅に削減された。広島平和記念都市の建設事業計画も例外ではなく、国の補助は平和記念公園や道路、下水道などに限られ、住宅や学校・福祉施設などの事業費はバッサリ切られてしまった。 (広島市『戦災復興事業誌』1995)
市長としても「無い袖は振れない」ということになる。けれど、平和記念公園はつくっても、そこに暮らしていた人たち、その人たちは皆戦争の被害者だが、追い出され路頭に迷うことが果たして「平和」と言えるだろうか。