原爆ドームが語らせる21 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 県都市計画課長だった竹重貞藏さんは独断で産業奨励館の廃墟を危険建造物処理事業の対象から外したが、後にこう記している。「このドームの永久保存にはどれだけの費用がかかるかということまでは考え及ばなかった」(竹重貞藏「49年前を回顧して 広島市の戦災復興都市計画の構想」広島市『戦災復興事業誌』1995)。

 1947年に広島市長に就任した浜井信三さんは、原爆ドームの保存に当初否定的な発言をしていた。要は金がかかるということだ。原爆ドームのレンガを全部バラしてセメントで固めて組み直すのには多額の費用が必要。解体するだけでも金がいる。それでしばらく放置した。しかし、ドームは少しの雨風でヒビ割れ、レンガが落ちた。いつ崩落するかもわからない建物の残骸をいつまでもそのままというわけにはいかなくなった。

 さてどうするか。原爆ドームの保存を求める声は多かったが、浜井さんは特に「折鶴の会」の子どもたちの手紙に心を強く動かされたと回顧している。

 

 「私たちは、原爆のことは直接知りませんが、両親や大人のひとたちから聞かされて、こんなむごいことは二度と起らないようにしなければならないと考えています。実際に私たちは戦争を知らないし、原爆の体験もないのでありますが、それでも聞いて知ったあの恐ろしい事実を、一人でも多くの人に知ってもらうためにも、ドームをぜひ残してください」(浜井信三『原爆市長 復刻版』シフトプロジェクト2011)

  1965年になって広島大学教授で建築家の佐藤重夫さんから、合成樹脂接着剤を壁の亀裂に充填すれば4000万円で保存可能との報告書が提出された。これで浜井市長はドームの保存を決意し、翌年から市民国民に広く呼びかける募金活動を始めた。「原爆ドーム保存趣意書」には次のように書かれている。

 

 …広島原爆の遺跡は、ただ広島の惨害の記念物であるばかりでなく、人類が破滅と繁栄の岐路に立つ原子力時代の「警告」であり、人類がその過ちを二度とくり返してはならない「戒律」であります。その意味において、わたくしたちは、これを未来への道標としたいと思うのであります。これを残すことは、ひとり、広島の子孫に対するわたくしたちの責務であるばかりでなく、世界の良心が同胞に対してになう当然の使命であると存じます。…(広島市『広島新史 市民生活編』1983)

 

 原爆ドームへの関心はやがて全国で高まり、募金は目標の4000万円を超えて6680万円が集まった。1967年8月5日付の中国新聞夕刊に保存工事完工式の様子が大きく掲載されている。

 

 そのシルエットは工事前と変わりない。だが、ケロイドのようになった壁、二十二年の風雪でボロボロになっていたレンガは、十八トンの接着剤でがっちり固められた。そして何より変わったのは、百三十万人の、いやもっと多くの人たちの「平和の願い」が刻み込まれたことなのだ。(「中国新聞 夕刊」1967.8.5)

 

 多くの人の「平和の願い」に支えられ、原爆ドームは誰もが知るヒロシマのシンボルとなった。