死者の行方21 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1945年8月7日、賀茂郡北部(現 東広島市)から250人ほどの救援部隊が広島市内に入った。部隊の名称は第14特設警備隊(通称「賀北部隊」)。広島県内に28隊つくられた地区特設警備隊の一つで、上陸してきたアメリカ軍にゲリラ戦を挑むため在郷軍人や徴兵前の青年を集めた臨時の部隊だった。

 広島に着いた賀北部隊の任務は広島城址での、主に軍人の救護と遺体の収容・火葬で13日まで続けられた。当時隊員だった人が惨状を証言する。「初めて来てね、七日の朝見たときはね、もうホントこれなんちゅうことかな思いましたよ。とにかく飯がのど通らんのですけん」(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ・残留放射能の四十二年 原爆救援隊の軌跡』日本放送出版協会1988)

 腐乱した死体を二人がかりで投げ上げた。30人から50人の遺体の山ができて火がつけられた。1949年に掘り出され原爆供養塔に納められた「基町旧済美校 70柱」も、この時焼かれた骨ではなかろうか。

 中央テニスコート北側の道路付近でも多くの遺体を焼いたという隊員の証言がある。そして、その中にはアメリカ兵捕虜の遺体もあったというのだ。

 

 「ここに将校集会所と言うんがあったんです。そこも潰れてしもうて広場のようになってましたんで、そこへ兵隊さんを約一七〇位じゃったと思います。死体を山にしてね、そして木をやり、死体を乗せ、いいようにして焼いたんです。それから民間人も、やっぱり一〇〇人ばかりおったです。外人さんが、六人くらいだったですかの。この二七〇と六人を、初めの三日くらいで処理しとります」(『ヒロシマ・残留放射能の四十二年 原爆救援隊の軌跡』)

 

 将校集会所と歩兵第1補充隊の営倉は近い。アメリカ兵捕虜が目撃された広島城本丸や二の丸跡も遠くはない。発見されたアメリカ兵捕虜の遺体が一か所に集められて焼かれた可能性が出てきた。相生橋のたもとからも運ばれていたら遺体は全部で6体という計算になる。

 では、火葬された後の遺骨はどうなったのだろう。

 

 「…その焼却した仏の骨はね、よう憶えとらんですね。別に掬うてよそへ持って行ったゆう記憶もないしね。やっぱり、その翌日もそこで焼いたゆう気がします」(『ヒロシマ・残留放射能の四十二年 原爆救援隊の軌跡』)

 

 アメリカ兵捕虜だけでなく、兵士や市民の骨も一緒に焼いて、そのまま埋めて土をかぶせたというのだ。そうなると今でも、広島のアスファルトの下、石畳の下に、アメリカ兵捕虜の骨は埋もれたままかもしれない。あるいは、再開発の工事中に掘り出され、誰のものともわからないまま記録もされないままに供養塔の大箱の中に納められたかもしれない。

 どうやっても目にすることができないもの、手にすることができないものがヒロシマにはいくつもある。アメリカ兵捕虜の遺骨の行方も今はここまでだ。でも、わかったことは残しておきたい。骨はいつか土に還っても、ヒロシマの記憶を受け継ぐ人の心の中では、いつまでも消えることはないはずだから。