日本赤十字社広島支部のあったあたり
川本福一さんは1945年9月20日ごろから産業奨励館(原爆ドーム)北隣で自宅兼店舗の再建を始めた。広島平和記念資料館のデータベースで検索すると、林重男さんが1945年10月5日に撮影したパノラマ写真では川本さんの家は基礎もまだできていないが、11月にアメリカ軍が撮影したパノラマ写真には完成したばかりのバラックが姿を見せている。それから1年くらいは近くに家が建つことはなく、夜はことのほか寂しかったと川本さんは手記に書いている。
この間に私は、あたりに散乱しているお骨を整理して、砂を盛り山を作って、毎日線香を立てて懇ろにお守りをしていた。ところがどこでこれを聞かれたのか、西本願寺広島別院からそのお骨を取りに来られたのでお渡ししたが、その中には進駐軍の兵隊のお骨もあったのである。(川本福一「私は被爆後数十日で、原爆焦土に住みついた。草木も生えて立派に成長している」亀田正士『ああ広島の原爆』非売品1965)
※「進駐軍の兵隊のお骨」は川本さんの勘違い。
『広島原爆戦災誌 第二巻』(1971)は、遺骨を埋めたのは日本赤十字社広島支部の焼け跡だとしている。相生橋東詰南側、今は「旧相生橋の橋銘板」や「赤い鳥文学碑」があるあたりだ。
中国新聞社の『炎の日から20年 広島の記録2』(未来社1966)によると、広島別院が川本さんのところに遺骨を引き取りにきたのは1946年秋のことだという。これが1970年7月11日付の毎日新聞では、「遺骨は二十二年、西本願寺広島別院が掘出し、身元不明の日本人の遺骨とともにドラムカン二本に収納された」となっている。いつ掘り出したかに1年のずれがあるが、いずれにしても川本さんが散乱した骨を集めた時点で、どれが誰の骨かはわからなくなったことだろう。1948年になってアメリカの調査員が川本さんのところにやってきたが、アメリカ兵捕虜の遺骨の確認はできなかったようだ。
アメリカから調査員が来たので川本さんは渡した遺骨のありかを別院に問い合わせると、「慈仙寺鼻の供養塔に安置した」という答えが返ってきた (『炎の日から20年 広島の記録2』)
今は平和公園になっている中島地区には江戸時代から慈仙寺という浄土宗の大きなお寺があった。現在の原爆供養塔と韓国人原爆犠牲者慰霊碑の間の広場が慈仙寺の境内にあたる。平和公園の建設で慈仙寺が移転する際に一基だけ残された五輪塔の墓石が、かつてここに大寺のあったことを物語っている。「慈仙寺鼻」というのは、寺のあるあたりが昔はもっと細長く、川に突き出ているように見えたので「鼻」(岬の意味がある)と呼んだのではなかろうか。
この慈仙寺の跡地に原爆死没者の初代の供養塔、納骨堂、礼拝所などが建立されたのは1946年5月のことだった。
慈仙寺の墓石と一番奥に現在の原爆供養塔

