死者の行方9 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 川本福一さんが自宅の焼け跡に戻ったのは8月10日(「毎日新聞」1970.7.11)、あるいはその翌日(中国新聞社『炎の日から20年 広島の記録2』未来社1966)。川本さんの手記によると11日には5人の子どもと一緒に広島市を離れて県北の東城町で傷を癒し、広島市に帰ってきたのは8月18日。しばらくは広島駅近くの尾長町に持っていた別宅で養生した。「それから、いよいよ思い切って九月二十日頃、七十五年間草木も生えないと云われた焼け跡を整理して、二十坪の仮営業所を建てた」と記されている。(川本福一「私は被爆後数十日で、原爆焦土に住みついた。草木も生えて立派に成長している」亀田正士編『ああ広島の原爆』私家版1965)

 その間のことについて、毎日新聞は次のように報じている。

 

 四日目の八月十日、自宅に戻った川本さんは、原爆ドーム真向かいの相生橋北詰の電柱に針金でしばられ、死んでいる若い米兵を目撃、熱心な仏教徒だったことから数日後「死んだ人に罪はない」と、青いシャツとクツの遺品を拾い、原爆ドームわきの元安川岸に遺体を手厚く埋葬、墓標を立て供養した。(「毎日新聞」1970.7.11)

 

 記事の内容は『広島原爆戦災誌 第二巻』(1971)とほぼ同じだ。ただし、「数日後に遺体を埋葬」というのは、にわかには信じ難い。川本さんは広島市を離れていたはずだし、遺体が炎天下に放置されていれば腐乱して酷いことになっていたはずだ。土を掘って埋めるのも簡単なことではない。

 広島市中心部の遺体収容と火葬は主に宇品の陸軍船舶司令部に所属する部隊(「暁部隊」)によって行われた。船舶練習部第十教育隊の石塚恒蔵さんがアメリカ兵の遺体を目撃したと手記に書かれている。

 

 私は翌日、私の部隊の救援受持区域を巡視の為、今の原爆ドームから太田川の附近まで足を延した。太田川の中は、三日経っても、四日経っても屍体の片づけ手がなく、夥い数の遺体が水に浮んで満潮の時はおし上げられ、干潮の時は下流に流れていた。陸上の屍体取片づけが先だったので、河の中までは手が届かなかったのだ。原爆ドームの入口附近に白人の屍体がうずくまっていた。通行人が憎しみをこめて石を投げたらしく、こぶし大の石がたくさん当っていた。(「被爆者救護活動の手記集(暁部隊)」『広島原爆戦災誌 第五巻』)

 

 「翌日」というのは9日のことで、「原爆ドームの入口附近」ということから、川本さんが供養したというアメリカ兵と同一人物で間違いなかろう。石塚さんは、アメリカ兵の遺体だけはそのまま放置したとは書いていない。あたり一面に散らばる他の遺体とともに9日に火葬したのではなかろうか、アメリカ兵の遺体だけ見せしめのために放置でもしたら、そのことを手記に残さないとは考えにくい。

 川本さんが相生橋のたもとで目にしたのはアメリカ兵のものと思われる「遺骨」で、それは9月20日ごろだったと見るべきだろう。