死者の行方5 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

現在の広島銀行本店と三井住友銀行広島支店

旧芸備銀行の説明板

 中国憲兵隊司令部庁舎は爆心地からの距離約400m。木造2階建てで、アメリカ兵捕虜は1階の独房に収容されていた。それは原爆の爆風と熱線と放射線で三重に殺されることを意味する。実際はどうだったかといっても、それぐらいの距離で被爆して証言を残した人はごくわずかしかいない。

 広島大学原爆放射能医学研究所(「原医研」 現「原爆放射線医科学研究所」)は1968年から爆心地一帯の調査を始めた。そのころ、NHK広島放送局が1966年8月に放送したテレビ番組「カメラリポート・爆心半径500メートル」をきっかけに、生き残った住民が集まって爆心地の街並みを一軒一軒復元しようという「爆心地復元」の運動が始まっており、この二つの取り組みが結合して爆心地復元地図が次第に姿を現していった。(志水清編『原爆爆心地』1969)

 この取り組みの中で集められた資料から、原爆がさく裂した時に爆心地から半径500m圏内に21,000人がいたと推定され、そして奇跡的に生き延びた人が1969年時点で78人いることがわかった(2024年11月15日のNHK中国ローカルの番組で、現在は一人だけ健在であると報じていた)。死亡率99.6%ということになる。

 奇跡的に生き延びた人のほとんどは鉄筋コンクリートのビルの中にいた。と言っても、ビルの中だったら安全というわけではない。紙屋町にあった芸備銀行(現 広島銀行本店)で被爆して生き延びた一人高蔵信子(あきこ)さんは、火に追われて隣の住友銀行広島支店(現 三井住友銀行広島支店)に逃れた。

 

 銀行の中に入って大変驚きました。机、椅子などが粉砕され、山積みとなり、沢山の職員の方が血を流して、即死していらっしゃるのです。「アッ」という声を発するのみで、言葉もありません。(高蔵信子「今、語り伝えたいこと」広島平和記念資料館ホームページ「被爆者は語る」)

 

 爆心地から260mという距離なので爆風がドアも窓も突き破ってビルの中を荒れ狂ったのだ。そしてすぐに建物の中で火の手が上がった。

 これが木造建築となると一瞬にして圧し潰されたに違いないが、そうなると証言する人はさらに限られる。中国新聞社国民義勇隊は爆心地から500mの天神町で建物疎開作業中に被爆して全滅した。隊長の北山一男さんが死ぬ前に語ったところによると、北山さんは倒れた建物の下敷きになって危うく焼け死ぬところだったが、通りがかりの人に助けられて脱出できた。しかし周りはすでに火の海だった。

 

 二人は元安川に飛び込んだ。炎はますます募る。風を呼び、竜巻となってやっと生きのびた人々を川の中へ投げ込んだり、炎の中へ落とした。炎も竜巻となって川面をなめた。(御田重宝『もう一つのヒロシマ』中国新聞社1985)

 

 北山さんは崩れた建物の下での圧死、焼死を免れ、さらに水死も免れて11日に家族が待つ三次市にたどり着いた。しかし、傷らしい傷もなかったのに北山さんは13日の朝になって突然血を吐いて亡くなった。放射能は見逃してはくれなかったのだ。(北山二葉「あッ、落下傘だ」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)