ヒロシマを歩く76 死んだアメリカ兵2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 中国軍管区司令部の営倉には複数のアメリカ兵捕虜が収容されていたようだ。8月6日の午後、宇品から救援に駆けつけた「暁部隊」の竹下士郎さんは、広島城二の丸跡で宇品の憲兵がアメリカ兵捕虜を連行するのを目撃している。竹下さんは後年「原爆の絵」を描かれたのだが、そこにはアメリカ兵を二人描き込んでおられる。ちゃんと立って歩いているので中国新聞記者の大佐古一郎さんが見たアメリカ兵とは別人ではなかろうか。

 自国の原爆に命を奪われたアメリカ兵を長年調査し追悼されたことで知られる森重昭さんによると、宇品の陸軍船舶練習部に臨時に設けられた広島第一陸軍病院宇品分院で、8月19日に2人のアメリカ兵捕虜が死んでいる。二人の名前はB-24爆撃機ロンサムレディー号の搭乗員ラルフ・J・ニールとSB2Cヘルダイバー艦上爆撃機の搭乗員ノーマン・ローランド・ブリセット。ニールは顔と頭、ブリセットは腹部に怪我をしていたが、深刻だったのは放射線障害で、8月17日に二人と出会ったアメリカ兵捕虜によると、彼らはひどい吐き気と痛みを訴え、口や耳からは緑色の粘液のようなものが流れ出ていた。そしてあまりの苦しさに、「撃ち殺してほしい」と懇願したという。(森重昭『原爆で死んだ米兵秘史』光人社2008)

 竹下士郎さんが広島城二の丸跡で目撃した二人のアメリカ兵捕虜はニールとブリセットだったのではなかろうか。

 広島城址の焼け跡では翌7日にもアメリカ兵捕虜が目撃されている。中国軍管区司令部の半地下壕の中にいて命拾いした比治山高等女学校3年の岡(旧姓 大倉)ヨシエさんは、7日から幼年学校の焼け跡に置かれた臨時救護所で看護に当たった。そこには屋外で被爆して全身大火傷の級友が何人も運び込まれてきた。意識が朦朧としていたのだろう、彼女たちは「仕事をさして下さい。」「私は行かなければ…」「交替の時間です」と言い続けるのだった。岡さんは涙が止まらなかった。

 

 一日中看護につきっきりで七日の夕方が来た。一人二人と兵隊さんが亡くなって行く。友達四、五人で表の城門の方へ水を汲みに出かけた。第一の城門わきに、まだ年若いアメリカ兵が横になっていた。しきりに「ウオーター、ウオーター」と私達によびかける。少し可哀想だけど水なんかやれない。

 私達の広島を、私達の同胞を、こんなにいためつけた国の人に。(岡ヨシエ「交換台と共に 」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969)

 

 岡さんの見た「年若いアメリカ兵」は、前日に大佐古一郎さんの見たアメリカ兵捕虜と同一人物の可能性が高いだろう。そうなると、二日間も炎天下に裸で放置されていたことになる。喉の渇きは耐えきれないものがあったのではなかろうか。それでも、岡さんたちは水をあげる気持ちにはどうしてもなれなかった。