ヒロシマを歩く47 三篠橋2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

手前から元安川、本川、本川小学校

 広島で原爆の炎に追われて川に飛び込んだという話はいくつも残されている。まず居森清子さんの体験を取り上げてみたい。居森さんは当時本川国民学校6年生。校舎は鉄筋コンクリート3階建てのL字型で、居森さんは本川に一番近いところにあった靴脱ぎ場で被爆した。爆心地からの距離は350m。「ピカッ」も「ドン」もわからない。突然あたりが真っ暗になった。

 近くに窓がなくコンクリートの壁に遮られていたためだろう、居森さんに外傷はなく、火傷もしていなかった。でも運動場に出てみると、外で遊んでいた子は皆黒焦げになっていて誰が誰だかわからず、教室から逃げてくる子はガラス片が体中に突き刺さって血だらけになっていた。居森さんが呆然としていると、職員室から走り出てきた先生が「早く川に入りなさい」と叫んだ。学校の三方はすでに火の海で、逃げるなら目の前の川しかなかった。

 

 その日、広島の海は八時過ぎに満潮を迎えていました。そのため川の水位も高く、川底に足が届かずに、ほとんどの子が力尽きて流されていきました。私たちは大勢の人が乗ったいかだにつかまることができ、「友達の分まで頑張ろう」と自分に言い聞かせ、必死でしがみついていました。(居森公照『もしも人生に戦争が起こったら ヒロシマを知るある夫婦の願い』いのちのことば社2018)

 

 学校の目の前を流れるのは本川。本川や元安川など市内を流れる太田川の分流は満潮干潮の影響が大きい。満潮の時は川の深さは3m以上になるが流れは止まり、まるでプールのようだったとか。ところが引き潮になってくると本川は「絶対泳いじゃいけん」と言われるくらい流れがきつかったという。

 

 本川と元安川は流れの速さが全然違ってました。本川で泳いだ時は、本川小学校の方で泳いで、こっちへ渡ろうとしたら、流されてね、本川橋の方まで流されるんです。元安川の流れと本川の流れは全然違う。(ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会『証言 街と人の記憶』2010)

 

 そして8月6日、川の流れは特に速かった。吉川清さん一家が避難したのは三篠橋東詰の北側に広がる桜の名所だった長寿園。吉川清さんも妻の生美さんも大火傷大けがをしていたが、特に吉川さんの父親は瀕死の重傷だった。対岸の国民学校で治療が受けられるという声が聞こえ、なんとか川を歩いて渡ろうとしたが、その時、突然黒い大粒の雨がものすごい勢いで降り出した。

 

 太田川はみるみる増水してきた。真黒な水がさまざまな漂流物を流しこんでいた。瀕死の父と妻、それに子供づれとあっては、この流れのはげしくなった川を渡るのはいっそう困難になった。私は父を背負い、妻は二人の子供の手をひいて、とうとう川の中に飛びこんだ。水は私の腰のあたりまであった。流れは早く、ともすれば足をとられそうになりながら、一歩一歩足をふんばりながら渡って行った。(吉川清『「原爆一号」といわれて』ちくまぶっくす1981)

 

 吉川さんたちは何とか幅100mの川を渡り切ったのだが、黒い濁流に押し流された人も多かったに違いない。