世界最初の核融合による爆発実験は、1951年5月8日にアメリカが太平洋のマーシャル諸島エニウェトク環礁で行った「グリーンハウス」実験だが、それはまだ水爆と言えるような代物ではなかった。最初の水爆実験とされるのは同じエニウェトク環礁で1952年11月1日に行われた「マイク」実験で、それは運搬不可能な巨大な設備とでもいうべきものだったが、爆発エネルギーは10メガトン。広島型原爆の600倍以上もあった。 (実戦に使用可能な最初の水爆は、あの1954年3月1日に行われた「ブラボー」実験)
「マイク」実験について中国新聞の年表を見ると、11月8日付の「ロサンゼルス・エグザミナー」紙に目撃者の証言として「実験はエニウェトク環礁中の幅約0.8キロ、長さ約4.8キロの小島で行われ、爆発と同時に島はガスとチリに化してしまった」とある。吉田文彦さんの『証言・核抑止の世紀』(朝日選書2000)によると、爆発の跡には直径2km、深さ50mのクレーターができたという。周辺海域の放射能汚染もとんでもないものだったに違いない。
1950年1月にトルーマン大統領が水爆の開発を指示したことも中国新聞には載ったようだが、しかし当時の世の中はそれどころではなかったかもしれない。
その頃は朝鮮戦争が今にも始まろうとしており、世界も広島も、実戦で3発目の原子爆弾が使われるのではないかと危機感を募らせていた。それに対して占領軍は広島の平和運動を徹底的に弾圧し、新聞などの検閲は徹底された。当時の雰囲気を今に伝えているのは、峠三吉の詩「一九五〇年の八月六日」(『原爆詩集』岩波文庫)だけかもしれない。
広島の多くの人たちはまだ貧しさに喘いでいた。日々の生活を送るのに精一杯。その上、原爆の放射能はあの日からずっと人々を死に追いやってきた。1951年の4月から6月にかけて集められた『原爆の子』の手記の中で、小学校5年生の若狭育子さんはこう書いている。
今から半年前に、十になる女の子が急に原子病にかかって、あたまのかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生がひっ死になって手当てをしましたが、血をはいて二十日ほどで、とうとう死んでしまいました。戦争がすんでからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。死んだ人が、わたしたちと別の人とは思われません(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』岩波文庫)
それなのにさらにひどい爆弾ができると聞いて育子さんは恐怖に慄く。
原子ばくだんは、こんなにおそろしく、にくらしいものなのに、ラジオのニュースの時、広島のときよりも何十倍もおそろしいのができて、朝せんでも使うとか使わないとか言っていました。
おそろしいことです。(『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』)
そんなアメリカの水爆実験を追いかけるように、翌年8月8日、世界にまたもや衝撃が走った。ソ連のマレンコフ首相が演説したのだ。「米はもはや水素爆弾を独占していない。ソ連はいまや水素爆弾の生産を習得した」と。しばらく経って、アメリカの新聞一面には「赤い帝国、水爆実験」の文字が踊った。それはオッペンハイマーをますます窮地に立たせた。