都営地下鉄大江戸線の麻布十番駅には地震などの災害に備えて防災備蓄倉庫が設置され、水や非常食、医薬品、毛布などが保管されているという。大江戸線は地下深いところを走っているので地震に強く、緊急時の物資輸送手段として期待されているのだとか。
2024年1月5日付の読売新聞は、都がこの麻布十番駅防災備蓄倉庫を、外国からのミサイル攻撃の際に一定期間滞在できる「地下シェルター」に改装する方針だと報じた。換気設備や非常用電源、通信装置などを新たに備え付けるようだ。
ただ新聞には「核シェルター」とは書かれていない。「核シェルター」用に倉庫出入り口のシャッターを防爆扉と気密扉に取り替えるのは大変だろう。また、換気口から爆風が入ってくるのを防ぐにも費用は相当なものになるに違いない。麻布十番駅の「地下シェルター」は、通常弾薬のミサイルがビルを破壊するような攻撃から1〜2日程度避難するシェルターのモデル事業とでも言うべきものだろう。
しかし、大丈夫なのだろうか。この防災備蓄倉庫の面積は1480 平方メートル。一人の人間が横になれる面積を2平方メートルとすれば収容できるのは最大740人。そうなると本来の防災備蓄倉庫の役割はどうなるのだろうか。水や非常食などの防災物資を十分に備蓄し、それを速やかに搬出する妨げにはならないだろうか。もし戦争に備えると言うのなら、物資の備蓄と配給計画はこれでもかというくらいに練っておかなければならないはずだ。
1945年8月6日朝に広島城本丸跡の中国軍管区司令部で被爆した恵美敏枝さんたちが食べ物を口にできたのはその日の夕刻。場所は牛田の不動院だ。
しばらくして「おむすびですよー。」といって起こされ、たくわんとおにぎりを食べた。町民の人が作ってくれたのでしょうけれど、とてもおいしかった。そして有難かった。(恵美敏枝「通信室・終戦まで 」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969)
当時、広島が空襲に遭ったなら、焼け残った市内の国民学校で炊き出しをする計画だった。でもそれは机上の空論だとの指摘があり、広島市の配給課長だった浜井信三さんらは、市周辺の町や村で握り飯を作って運んでもらう計画を立てた。(浜井信三『原爆市長 復刻版』シフトプロジェクト2011)
広島市近郊のある村では、「6日午後4時ごろより、午後7時までに握り飯3千個を作れ」との命令が婦人会に出て懸命の作業が始まった。 (広島市教育委員会「あのとき閃光を見た 広島の空に」1986)
そして焼け野原で配られた握り飯は多くの人たちの命を繋いだ。けれど、市内には涼しい所などどこにもないのだから、せっかくの握り飯がすぐに腐ってしまうのはどうしようもなかった。また、握り飯をもらったが口にする気力もなく、そのまま息絶えた人も数知れない。
今だったら非常食として配られるのはアルファ米とかカップ麺といったところだろうか。かつて某高校放送部で団地の避難訓練を取材した時にアルファ米を味見させてもらったことがある。初めて食べてみて美味しいのに驚いたのだが、これがお湯でなく水しかなかったら味はどうなのだろう。水さえなかったら? いや、贅沢は言っておれないはずだ。