被服支廠は何を語る14 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 旧被服支廠レンガ倉庫の保全運動に取り組んでおられる切明千枝子さんは、「被服支廠は、太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義のシンボル。広島が軍都だったこと、原爆被害を受ける前は加害の地であったことの証明です」と語っておられる。(「朝日新聞」2020.8.4)

 それは切明さんの実感だろう。1929年生まれの切明さんは、母親が被服支廠に勤めていたことから廠内の幼稚園に通った。1942年に県立広島第二高等女学校に進学すると、2年生から被服支廠や兵器補給廠、糧秣支廠へ動員されるようになった。4年生になると皆実町の専売局(現 JT)へ行かされたが、原爆の時は負傷した祖母を治療してもらうため被服支廠に足を踏み入れている。

 私は、切明さんのこの証言に目が留まった。

 

 …兵隊さんたちが基町から四列縦隊で、軍装を整えて、一番先頭にラッパ隊が来る、ラッパを吹きながらザックザックと行列であの宇品港まで歩いていくんですね。それを途中で大勢の市民が見送る。私たちもその中に入って「万歳、万歳」と言って見送る。それがもう本当に毎日のように続いておりました。(『切明千枝子 ヒロシマを生き抜いて Part2)

 

 広島市郷土資料館の2015年度特別展「広島市民と戦争」の図録を開いてみると、市内中心部、紙屋町の芸備銀行(現 広島銀行)前の電車通で市民が「日の丸」の小旗を振り兵士を見送っている写真がある。

 それは1937年8月1日に撮影されたもので、兵士は日中戦争勃発により宇品港に向かう広島陸軍第5師団の歩兵部隊だ。広い車道を埋め尽くして旗をふる市民の熱狂ぶり。この光景こそが「軍都広島」なのではあるまいか。

 中国地方各地から召集された兵士は、小銃を肩に、背嚢(はいのう 背負い鞄)や水筒、飯盒(はんごう)、ヘルメットなど完全武装。武器以外は広島の被服支廠で調達されたものだろう。宇品港で兵士を見送った竹西寛子さんはその光景を後にこう描写されている。

 

 私達が並んでいるのは海沿いにつくられた長い護岸の石の道であった。桟橋にははしけが待っている。背嚢ばかりか腹部にも腰にも荷をつけて、人間の原型をほとんど失いかけている兵士は更に銃を担ぎ、軍靴のひびきを残して桟橋にいたると、待ち構えているはしけに分乗して輸送船に運ばれる。(竹西寛子 随筆集『山河との日々』新潮社1998)

 

 被服支廠で作られた軍服や軍靴がひとりの人間を兵士に変え、そして戦争が兵士から人間の心を奪った。1945年5月にフィリピンのルソン島で押収された日本軍兵士の日記にこんなことが書かれていた。

 

 毎日、ゲリラと原住民の討伐で過ごす。私はすでに100人以上を殺した。故郷を出るときに持っていた素朴さはとっくに消えうせた。いま私は無情の殺人者であり、私の刀はいつも血でぬれている。それは私の祖国のためだが、まったくの残忍さだ。神よ、私を許してください。おかあさん、許してください。(林博史「日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」『関東学院大学経済学部・経営学部総合学術論叢』2010)

 

 人間を「無情の殺人者」に変え、そのまま屍にしてしまった戦争。そこに広島を「軍都」と誇る市民の熱狂が後押ししていたことは間違いなかろう。それを無かったことにするわけにはいかない。なぜなら、それはやがて来る明日のことかもしれないのだから。