17歳で被服支廠に動員され負傷者の救護にあたった佐藤泰子さんには、いくつになっても忘れられない出来事がある。
水を欲しがる女学生(旧山中高等女学校)に「水を飲んだら死ぬるんよ」と云うと、女学生は、「死んでもいいから飲ませて下さい。一ト口、ゴックリ飲ませて下さい」と云いました。私は思わず泣きました。“死んでもいいから飲ませて欲しい” “一ト口、ゴックリ飲みたい“ それ程までに欲しがる水をどうせ命は無いものを何故飲ませてあげなかったか、あの女学生の言葉は今も耳に焼き付いて離れません。(佐藤泰子「原爆記」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
水をひと口だけでもゴックリ飲みたいと懇願したのは広島女子高等師範学校附属山中高等女学校の女学生。その日は爆心地から南に1kmちょっと離れた雑魚場町(現 国泰寺町)で1、2年生333人(広島平和記念資料館2004による)が建物疎開作業をしていた。被爆時の状況はほとんど不明。鎌田律子さんの証言があるだけだ。
鎌田さんたちが建物疎開作業をしていると突然パッと光り、すぐに爆風が襲ってきた。太陽がなくなったかのようにあたりは真っ暗になり、その中を鎌田さんは友だちと一緒に泣きながら走って逃げた。途中で倒れる友も多かった。
ほんの少し明るくなったので、他の人を見ると、他の人は裸になってしまっていました。皆、着物は焼けおちてしまって、ブルーマーだけになっていました。下を見ると、電車のレールが見えましたので、私は、此処でクラスの人と別れて、宇品の方へ逃げました。(『広島原爆戦災誌』)
一人助かった鎌田さんは宇品方面に向かったのだが、雑魚場町から被服支廠まで逃げた生徒の場合、その距離は約2km。全身火傷の体には気の遠くなるほどの長い道のりだったに違いない。
金谷満佐子さんが被爆したのは爆心地から東南に1.7km離れた平野町だった。目の前を巨大なB-29爆撃機の機影が横切ったと思ったら閃光が走った。
「ボッ!」まるで写真のマグネシュームを焚くにも似た赤黄色の光体が、眼前いっぱいに浮んだかと思うと、「パッ!」と炸裂した。そして私は体中にパラパラッと弾丸でも打ちこまれるような感じと、うずくような熱さを覚えながら、分らなくなってしまった。(金谷満佐子「ケロイドを残して」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)
金谷さんは顔と右手を火傷し、背中と後頭部は無数のガラス片に切り刻まれ血だらけになっていた。しかしその時は痛みを感じるどころではない。炎に追われて誰もが必死の思いで逃げたのだ。金谷さんは京橋川を渡って比治山橋の東詰からは東南東の方角にまっすぐ続く道をひたすら歩いた。その頃には思い出したかのように体のあちこちが痛み出していた。
少し行くともうどうにもならぬほどフラフラになって私は立止った。左手にある道の突当りに大きな門がみえる。私は是が非でもあそこまで行かねばと思い、足を引きずるようにしてやっと辿りついた。どこかと見きわめる元気もなく、受付で住所氏名をつげ、「重傷」と書いた荷札がつけられるうちに、私は意識を失ってしまった。(金谷満佐子 同上)
そこは被服支廠。比治山橋からの距離は約800mだ。