被服支廠は何を語る9 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 頭を負傷した香川昇さん、顔や手足に火傷した森武德さんらは被服支廠内の医務室に駆けった。医務室には軍医が一人と看護婦が数人常駐していたのだが、行ってみると医務室の建物も原爆の爆風に崩れ落ち、建物の周りにはすでに多くの負傷者がうずくまっていた。倉庫内の事務室で被爆した飛田茂雄さんは、庭で軍医が「三度の火傷だ、処置なし」などと呟きながら応急処置をしているのを目撃している。

 しかし、患者の処置が本当にどうにもならなくなるのはそれから後のことだった。飛田さんは被服支廠の正門前で押し寄せてくる人たちの姿を見て度肝を抜かれた。

 

 全身が焦茶色に近い赤紫。顔はバスケットボールくらいにふくれあがり、髪の毛、眉は焼けちぢれ、多くは男女の見分けもつかない人々の群。目、鼻、口、耳が焼けただれたり、鼻から下が全部唇のように見える人もいる。さっき医務室の外で見た人々の火傷は体のごく一部だったが、いまこの通路に何十人と立ちすくんでいる人々の大部分は、着衣と皮膚の見分けがつかず、背、あるいは胸一面がまっ黒に炭化しているのも珍しくない。死んだ赤ん坊をしっかり抱き締めている母親もいる。ほとんどが死人のように押し黙っており、声を出す気力のある数人だけが、「兵隊さん、水ください」の訴えをくりかえす。その真上から八月の太陽が容赦なく照りつけている。「へえたいさん、みずくださーい」(飛田茂雄「焼けただれた街 その日のヒロシマで」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 被服支廠はそのまま臨時の救護所となった。鉄筋コンクリート造レンガ壁の13番倉庫、12番倉庫が開放され、重傷者が運び込まれる。しかし火傷の治療は食用油か、あるいは酸化亜鉛と食用油を練って作ったチンク油を塗ることぐらいしかできない。けがのなかった被服支廠の人間は総出で、油が無くなるまで塗り続けた。中には火傷した皮膚がズルズルに剥けるのを見て気絶する者もでた。一方、ズル剥けになった人は、体にちょっとでも触られると飛び上がるほど激痛が走るのだった。悲鳴とうめき声が倉庫内に響き渡った。

 

 前に寝ている人を見ていたら、焼けただれていてわからないが、たしかにお母さんと赤ん坊だ。ずるむけのお母さんの身体に、隣に寝かされていた赤ん坊が、ちょっと手を伸ばして乳房をつかんだ。その瞬間、お母さんはうめきながら、その赤ん坊の手をはらいのけた。赤ん坊は弱々しげに悲しそうな声で泣いた。

 私はその様をじっと立って見ていた。悲しかった。涙を両手でぬぐい、ヤカンの口を赤ん坊の口に持っていき水をたらした。おいしそうにゴクリ、と飲んだ。そして、動かなくなった。(加藤春江「広島・原爆投下の日」 かとうけんそうnote2021)

 

 火傷のひどい人に水を飲ませたらすぐに死ぬので水をあげてはいけないと言われていた。それでも皮膚のない体からは体液が際限なく流れ出し、脱水症状による極度の喉の渇きから、「水、水」と、人は息を引き取るまで訴え続けるのだった。