被服支廠は何を語る3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

被服支廠の赤煉瓦倉庫

 小説家の竹西寛子さんの母校は県立広島第一高等女学校(第一県女)だ。と言っても、その頃勉強できた日数はごくわずか。2年生から勤労動員が始まってあちこちの現場で働かされ、1944年3月には、中学校・女学校3年生以上の1年間通しての勤労動員が決定された。3年生の時に竹西さんたちが行かされたのは被服支廠だ。

 

 半世紀前、この大きな赤煉瓦の建物は田畑に囲まれ、門には歩哨が立っていた。戦争末期の一時期、私達は学徒動員で、女学校での授業の代りにこの被服支廠へ作業に通っていた。軍属や徴用工と呼ばれる人達と一緒に、赤煉瓦の建物の中で、この鉄格子の中で働いた。軍衣を裁ち、釦(ボタン)を付け、釦穴をかがり、布団袋を縫い、床に這いつくばって綿を入れた。労働力ではあっても、自立する個人である必要のない、いや自立する個人であってはならない生活が続いていた。(竹西寛子『山河との日々』新潮社1998)

 

 第一県女では1944年6月に教室が被服支廠の分工場になり、4年生がミシンを踏んだ。10月からは3年生が被服支廠に送り出された。当時第一県女の生徒だった人たちの証言が残されている。それは大変な作業だった。

 

 勢いづいた拍子に指を縫うことがあった。針が左人差し指の爪を貫き、ハッとミシンは止まる。ハンドルをゆっくり逆に回して引き抜くと、爪の穴から鮮血が盛り上がった。

 

 緊張の連続で「お国のためなら、無理は当然。精神力でおぎなう」が当然とされ、食糧事情も悪く病気になる人がとても多かった。私も度々発熱、腹痛、頭痛、体重もおちて調子悪く、生理も止まって、(終戦後?)になってやっとふつうになった。長期欠席になる人も多かった。

 

 …警報が出るたびに作業が中止になって、能率があがらなくなった。冬の下着が来た時は、あまりにうすくて一度着たらやぶれてしまうのではと心配したら、「これは着がえるのではなく、着たらそのまま敵陣に突っ込んで散って行くのだ」ときかされ、何とも言えない気持ちになった。(皆実有朋会アーカイブズ継承委員会「広島第一県女の学徒動員」皆実有朋会2017 旧被服支廠の保全を願う懇談会編『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』2020より)

 

 県立広島第二高等女学校の生徒だった切明千枝子さんも被服支廠に動員されている。2年生の頃はまだミシンを踏んでいたのだが、後には戦場から送り返された大量の軍服を洗濯する仕事になった。軍服は銃弾で穴が開き血がべっとり染み付いていた。

 

 焼け焦げ、撃たれたような穴、どす黒く固まった血……。

 「日本は大丈夫なのだろうか」。思わず口にすると、「そんなことを言ってはならん。日本は神の国だから勝つんじゃ」と周りに怒鳴られた。黙るしかなかった。(切明千枝子「被服支廠と私」朝日新聞2017.1.25 『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』より)

 

 広島の被服支廠は確かに戦場と直結していた。いや、戦場そのものだったかもしれない。そこでは人間性のひとかけらさえ持つことを許されなかったのだから。