被服支廠は何を語る1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

比治山から見た被服支廠

 2023年11月24日、旧広島陸軍被服支廠の現存する4棟の倉庫が国の重要文化財に指定というニュースが飛び込んできた。被服支廠はこれまでもブログに書いてきたが、何年も前の記事となると更新も必要だし、文字化けもあるので、直しを入れて再掲することにした。ブログ「人類の自殺」はその間お休み。

 

 広島の爆心地から東南に2.7km離れて巨大な4棟の建物が原爆そして戦後を生きのびている。

 この建物は、元は広島陸軍被服支廠の倉庫(以下「旧被服支廠倉庫」)で、1913年に完成した。レンガ造の建物に見えるが実は鉄筋コンクリート造で、現存する鉄筋コンクリート建築としては国内最古級だという。

 陸軍被服廠の本廠は東京に置かれ、1907年に支廠が大阪と広島に置かれた。被服廠の業務は、軍服を縫製し軍靴を製造するとともに、その他の兵士の装備品一式を業者から調達し、それらを保管、補給することだった。

 そのため被服支廠の敷地は広く、今の広島皆実高校、県立広島工業高校、テレビ新広島本社のあたりまであり、そこに縫製・製靴などの工場と現存する4棟を含め全部で13棟の巨大な倉庫が並んでいた。

 しかし空襲が激しくなると、工場の機械や軍服などの製品は各地に分散疎開し、倉庫も木造の4棟を取り壊し、さらに2棟を取り壊している最中に原爆に遭った。1945年8月6日、多くの被爆者が傷ついた体を横たえたのは、残っていた空の倉庫の中だった。

 被爆から2日後、峠三吉は被爆した知り合いの女性を見舞うため被服支廠の門をくぐっている。

 

 コンクリートの倉庫、陰惨な感じ歪める大鉄扉のある一つを潜る。

 (後日新しき赤十字旗を揚く)

 階下暗し、鉄甲、被服梱少々見ゆ、かび臭き空気、階上よりの異様な悪臭。 

 コンクリートの段、響く靴、最重傷者の収容場、振り返る案内の者の横をぬけて昇り切る。

(峠三吉「メモ覚書感想」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)

 

 戦争が終わり、県が被服支廠倉庫の保存について検討を始めたのは1980年のことだ。博物館や美術館の案も浮上した。しかしその度に県の財政難が指摘されて頓挫し、さらに耐震性に問題があるとわかると県は一転して解体の方針を打ち出してきた。

 これに対して2014年に「旧被服支廠の保全を願う懇談会」を立ち上げて保存運動に尽力された中西巌さんは、「この建物を核兵器廃絶に役立ててくれという魂の声が今も天国から聞こえる」と訴えた(「中国新聞」2019.12.2)。多くの人が賛同し、「旧被服支廠倉庫」の保全を求める運動は大きな盛り上がりを見せた。

 「旧被服支廠倉庫」の保存が確定すると、今後は建物の活用策が本格的に論議される。私は、ローマ教皇フランシスコが2019年11月24日に広島の平和公園から世界に発信したスピーチを思い出す。

 

 わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。(「教皇のスピーチ」部分 ローマ教皇庁)

 

 現在と過去、過去と未来の対話を歴史という(E.H.カー『歴史とは何か』岩波新書)。平和な未来を創るために現在を見つめ、過去に学ぶ。今、私たちは何を「旧被服支廠倉庫」に問いかけるのか、「旧被服支廠倉庫」は私たちに何を語ってくれるのか。