広島平和記念資料館の「黒い雨」の絵
「放射性降下物(フォールアウト)」と聞くと、広島では多くの人が「黒い雨」を思い浮かべるだろう。原爆で広島市は爆心地から半径2km以内が大火災となった。大量のススが舞い上がり墨汁のような雨となって降ってきた。爆心地からわずか260mのところにあった芸備銀行(現 広島銀行本店)で奇跡的に助かった高蔵信子(たかくら あきこ)さんが描いた「黒い雨」の絵が平和記念資料館に展示してあり、絵には高蔵さんの言葉が添えてある。
そのうち 雨が降ってきました
くろい くろい雨
大きなつぶの雨
空にむかって
その雨をのもうと
口を大きくあけました
あつくて あつくて
からだ中が火のかたまりのように
なっていたから
水が ほしかったのです(広島平和記念資料館)
雨は必ずしも黒いとは限らなかった。爆心地から北に20km。私が今住んでいる北広島町には泥のような雨が降った。当時国民学校5年生だった近所のおじいさんが証言しておられる。原爆の衝撃で舞い上がった土ぼこりが雨に混じれば、「泥の雨」になるのは不思議ではない。
また、焦げた紙切れが飛んできたという証言もある。当時集団疎開していた光道国民学校5年生の子どもたちは南の空に「キノコ雲」を見た同じ日の夕方、また目を見張った。
…夕刻近く、みるみるうちに村の空が重たく曇り、空からキラキラ光を帯びた感じのビラが村いっぱいに降り注いでくるではないか。
われ先にと拾ってみんなが驚いた。落ちてきたのは、みんな焼けただれた紙幣や新聞、雑誌、伝票の類いばかりで、これはタダごとではないと直感した。(福間喬介「五十キロ、深夜の夜逃げ」広島光道学校同窓会『広島光道学校の想い出』1990)
この「黒い雨」も焼け焦げた紙切れも、どれもが残留放射線を出していたのだが、その時は誰もそんなこと知るはずもなかった。
舞い降りてきたのはそれだけではなかった。広島の原爆に使用されたウランは64.1kgで、そのうち核分裂するウラン235は51.55kg、そして実際に核分裂して爆発したウラン235は912gと推定されている。(静間清「広島原爆線量評価に果たした被曝建造物および被曝資料の役割(その1) 残留放射能の深度分布」『広島平和記念資料館 研究報告第14号』2019)
ウラン235が核分裂すると多くの放射性物質(核分裂生成物)ができる。代表的なものはヨウ素131(半減期8日)、ストロンチウム90(半減期28.9年)、セシウム137(半減期30.07年)だ。
ヨウ素131はガンマ線とともにベータ線を放出する。ベータ線とは要するに電子が飛び出しているのだ。ただし飛ぶ距離は空気中で1m、水中で数mmなので、外部被曝はそれほど心配することはないとされる。
しかし、飛ぶ距離が短い分、狭い範囲でエネルギーが放出されるから、ベータ線を放出する物質が皮膚や体内組織に付着すると影響は大きい。ヨウ素131は甲状腺に集まる性質があるが、その放射線量が半減するのは8日後、4分の1になるのが16日後、24日後になってようやく8分の1になる。
チョルノービリ原発事故の1年後に出版された『危険な話』で著者の広瀬隆はこう予測した。
…チェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生する。もうすでに、兆候は出はじめているでしょう。(広瀬隆『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』八月書館1987)