那須正幹さんの遺言76 広島を生きる2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

己斐にある被爆建物の旧日本麻紡績給水塔

 原爆で夫を亡くした市橋靖子は幼い和子を連れて己斐にある実家に戻り、1948年の秋に小さな駄菓子屋を始めた。飴が一粒50銭、10粒入りのキャラメルが一箱10円、合成着色料で色付けした「みかん水」が3円でラムネが7円。

 子どもたちの一日の小遣いは5円が普通で、子ども相手では大した儲けにならないところに自転車でアイスケーキを売って回る商売人が現れた。アイスケーキと言っても合成甘味料と着色料を溶かした水を凍らせた代物。だが一個が5円で、井戸水で冷やした「みかん水」やラムネでは太刀打ちできない。靖子はかき氷を始めることにした。一杯10円だけれど、子どもには氷を半分にして5円。大人にも子どもにもよく売れた。

 ここまで書いて思い出すのは私が5歳ぐらいのころ。1960年ごろということになる。普段おこづかいで買えるキャラメルといえばサイコロ型の箱にキャラメルが2粒入ったサイコロキャラメルで、ジュースは合成甘味料と着色料の粉末ジュースを水で溶かして飲んだ。夏のある日、店に行ったら一番安い5円のアイスキャンデーが10円に値上げになったと言われて悲しかった思い出がある。

 『ヒロシマ 歩き出した日』の頃は、戦後の食糧危機がようやく一息ついたぐらいで、まだまだ貧しかった。野菜や魚は前よりは手に入るようになったが、米は配給だけでは足りないので麦を混ぜて食べた。靖子がある日、亡き夫の実家から米を分けてもらった時のこと。

 

 靖子は、そっと和子にいった。

 「今夜は、お米だけのご飯が食べられるよ」

 「ほんま?」

 「市橋のおばあちゃんが、お米を分けてくれたんじゃ」

 「うわあ、白ご飯じゃ、白ご飯じゃ」

 和子がうれしそうにスキップをふみながら、握った靖子の手をふりはじめた。今月満五歳になる和子の手や腕は、子どもらしい丸みもなく、か細かった。(那須正幹『ヒロシマ1949 歩き出した日』ポプラ文庫2015)

 

 戦後は1949年ごろまで猛烈なインフレ。それがやっと落ち着いたかと思えば今度は不景気で街に失業者があふれた。アジアではまた戦争が起こりそうな嫌な気配。そして1949年にソ連が原爆を持つと、翌年1月にはアメリカのトルーマン大統領が水爆製造命令を出した。どこかでまた核兵器がさく裂するかもしれないという危機感が世界を覆う。

 1950年3月、「われわれは、人民にとっての恐怖と大量殺害の兵器である、原子兵器の絶対禁止を要求する」とした「ストックホルムアピール」が出され、これに賛同する署名数は世界で5億、日本でも645万筆に達して、朝鮮戦争での核兵器使用にストップをかけた。

 靖子も原爆だけはもうこりごりなので署名した。でも、そのころの靖子にとって最大の関心事は、どうやって自分たちの暮らしを立て最愛の娘を育てていくかということだった。挫けるわけにはいかない。「うちはあのピカの炎のなかから生きのびてきたのだ。これからさき、世の中がどんなになろうと、必ず母子で生きのびてみせる」。

 ところが悪いことに和子が小学生になった1951年の春、大工をしていた靖子の父が事故死した。駄菓子屋だけでは靖子と靖子の母、そして和子が暮らしていくのは難しい。何かいい商売はないか。靖子は思案をめぐらした。そしてその年の12月、己斐の商店街で「お好み焼屋いちはし」が店開きした。