「ブラボー」実験では日本漁船だけでなく、マーシャル諸島に暮らす人たちやアメリカ軍気象観測員も「死の灰」を浴びている。気象観測員が灰を放射能計測器で測定しようとしたら針が吹っ飛んでしまい、実験本部に救助を求めたが避難できたのは翌日になってのことだったという。(春名幹男『ヒバクシャ・イン・USA』岩波新書1985)
ビキニ環礁から東に180km離れたロンゲラップ島では、昼前から白い灰が降り始めた。子どもたちは雪かと思って体になすりつけたり舐めたりした。しかし、それは苦かった
やがて、頭痛、下痢、吐き気がしだして灰が毒だとわかった。翌日になると灰のくっついた肌がひどい火傷のようになった。島の人たちは後で知ったことだが、灰は放射性降下物(フォールアウト)と言い、放射するベータ線が皮膚の細胞を壊死させたのだ。
3日になってやっとロンゲラップ島の人たちの移送が始まった。行き先はマーシャル諸島クワジェレン島にあるアメリカ海軍基地。5日にはビキニ環礁の東470kmのウトリック島でも移送が行われた。この島では3月1日夕方、島全体が霧のようなものに包まれた。ロンゲラップ島に降ったものより細かい粒子だったのだろう。しかし、ウトリック島とほぼ同じ距離にあり、同じようにフォールアウトのあった島々の住民には何の対策も取られなかった。
ロンゲラップ島の人たちは移送する船の甲板で頭から水を浴びせられた。体についた灰を洗い流すためだったが、何の説明もなかった。収容された島でも一日に3回、海で水浴びし、そのあとで裸になっての放射線検査があった。
水浴びのために海に行くと、みんな裸になるように言われました。水浴び後、アメリカ人が頭髪や陰毛の部分の放射線を測りました。測る時に手で隠すことはできませんでした。機械が反応すると石鹸をわたされ、アメリカ人の前で洗いなおすことを命じられ、その後にもう一度測りました。(豊﨑博光「キャッスル作戦とマーシャル諸島の人びと」広島市立大学『広島平和研究2号』2015)
この時、尊厳を傷つけられたロンゲラップ島の女性たちが怒って抗議したのは言うまでもない。これが、アメリカ原子力委員会ルイス・ストローズ委員長が言った「元気で、幸せそうに思えた」の本当の姿だった。
キャッスル作戦では、水爆実験に伴う生物医学研究が実施された。そのタイトルは「高爆発威力兵器の放射性降下物によるベータ線及びガンマ線で著しく被ばくした人間の反応研究」。
マーシャル諸島の被曝住民が集められたクワジェレン島にはすぐに医師や科学者からなる医学チームがやってきた。しかし検査をするだけで、治療はせず薬もださなかった。主な任務は人々の被曝放射線量を算出することだったようだ。島の人たちは研究対象でしかなかったのだ。
ウトリック島の人たちは1954年6月、ロンゲラップ島は1957年6月に帰島が認められた。「ロンゲラップ島の放射能汚染は人間の居住に安全だとしても、その放射能レベルは世界で人間が住むいかなる地域よりも高い。その島にこれらの住民が住むことは、人間に関するもっとも価値ある環境放射能データを提供するであろう」。 (「キャッスル作戦とマーシャル諸島の人びと」)
これがアメリカの思惑だった。島の人たちにはさらなる苦難と悲劇が待っていた。