那須正幹さんの遺言62 終わらない夏9 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1955年4月、下田隆一さんら5人が原告となって、原爆による損害賠償請求の裁判(「原爆裁判」「下田事件」)が始まった。原告のひとりに多田マキさんがいる。マキさんが勇気を出して原告に加わったその出発点は、1952年の暮れ、山代巴の勧めで「原爆被害者の会」に入り自分の被爆体験を手記にしたことだった。

 マキさんは広島市皆実町の路上で被爆した。爆心地からの距離は約2km。警報が出ていないのに飛行機が飛んでいるのが気になって空を見ながら歩いていたらピカッと光り、とたんにペンキをどろっと溶いたものを投げつけられたような気がした。夫が叫んだ。「早う着物を脱げ、燃えているぞ」と。

 気がついてみると頭から肩からおへそのあたりまで大火傷。マキさんと一緒だった幼い長男も上半身を火傷して、「熱いよ熱いよ」と泣いていた。

 多田さん一家は命だけは助かったが戦後の生活は悲惨だった。マキさんの顔や体にはケロイドができた。街を歩けば、道端で遊んでいた子どもたちがマキさんの顔をみて泣きながら家にかけって入っていく。銭湯では客が気味悪がるからといって入浴を断られた。

 マキさんは少し体を動かすと意識が遠のいたり出血したりもする。眼は両方とも白内障になり小さな字が読めなくなった。けれど医者にかかろうとしても診てくれない。診てもらうにはお金だけでなく米や着物まで医者に渡さなければならなかったのだ。けれど多田さん一家は家を焼かれてしまっていた。どれもこれも、マキさんは戦争が恨めしくてたまらなくなった。(多田マキ子「夫はかえらない」原爆被害者の手記編纂委員会編『原爆に生きて 原爆被害者の手記』三一書房1953)

 それだけではない。多田さん一家は戦後の「生き馬の目を抜く」ような世の中に投げ出され翻弄された。山代巴がマキさんからその話を詳しく聞くことができたのは1965年1月になってのことだった。

 借地に建てたバラックは戦後の復興の中で立ち退きを迫られた。市の失業対策事業(「失対」)で働けば日当をピンハネされ、その上、告げ口をしたと疑われて暴力を振るわれた。隣に住む町内会長で民生委員という街の顔役の機嫌を損ねたことがきっかけでマキさんの夫は嫌がらせを受け、それがもとで夫は失踪した。実は遠い町で働いて家族を養おうとしたのだが、そこで「原爆症」に倒れたのだった。

 病気の体で3人の子どもを育てようと思ったら、生活保護と失対の世話になるしかなく、街の顔役にはへつらい、その横暴にも耐えるしかなかった。けれど被爆から20年、春になれば2番目の子どもも高校を卒業して働きに出るのだ。マキさんは、山代巴がこれまでのことを洗いざらい本に書くことを了承した。

 「暴力なんか恐れていたら、いつまでたっても戦争の爪は抜けん。戦争の爪はな」とマキさんは子どもたちにいった。「こうやっていつまででも私らを引っぱっているんだ。この爪を引き抜くためなら母ちゃんは何でもする。もうお前らは母ちゃんがいなくなっても、孤児院へ入れられる心配はないんだから」(山代巴「ひとつの母子像」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書1965)

 

 抑えつけられ地を這うような生活の中でも、戦争がもたらしたものへの怒りの炎は消えることがなかった。それが「原爆裁判」の原動力となった。