那須正幹さんの遺言60 終わらない夏7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1956年、できたばかりの日本原水爆被害者団体協議会(「日本被団協」)は、「原爆被害者援護法要綱」をつくり、国費による原爆被害者の医療と必要な生活の保障、また家族を原爆に奪われた人たちの救済を国に働きかけた。

 しかし、国の回答は極めて不十分だったとしか言いようがない。1957年4月に施行された「原爆医療法」の第一条にはこう書かれている。

 

 この法律は、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の被爆者が今なお置かれている健康上の特別の状態にかんがみ、国が被爆者に対し健康診断及び医療を行うことにより、その健康の保持及び向上をはかることを目的とする。

 

 被爆者救済の最初の一歩とは言え、被爆者や遺族の生活面の保障は皆無。一言で言えば「償い」ではなく「恩恵」だった。鳩山一郎の言葉で言えば「かわいそう」だからということ。「健康上の特別の状態」とは放射線障害のことで、これで他の空襲などの戦争被害者と切り離す狙いもあっただろう。

 また、放射線を浴びていれば皆医療の援助があるというわけでもなかった。第七条に「原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し、又は疾病にかかり、現に医療を要する状態にある被爆者に対し、必要な医療の給付を行う」とある。

 どこが問題かと思う人もおられようが、これによって酷い仕打ちを受けたひとりが、広島平和記念資料館に「N家の崩壊」として紹介されているNさんこと中村杉松さんだ。以前、ブログ「広島平和記念資料館~N家の崩壊」に書いた。

 漁師の中村杉松さんは1945年8月6日、建物疎開作業中に原爆の熱線をあび、倒壊した建物の下敷きになった。全身火傷に急性放射線障害で一時は生死の境をさまよったが、何とか危機を脱した。

 しかし1949年になると杉松さんは極度の疲労に襲われるようになり、働くことができなくなった。奥さんがひとり魚の行商で一家を支えたが、今度は奥さんが倒れ、1951年に夫と6人の幼い子どもを残して亡くなった。死因は子宮ガン。被爆直後の市内中心部に何度も入ったせいかもしれない。

 極貧の暮らしの中、少しでも生活費を稼ぐため杉松さんは漁に出た。が、その後で必ず発作が出た。

 

 家に担ぎ込まれると中村さんは万年床に転がりこみ、夏の夜だというのに寒気を訴えて頭から蒲団を被り、敷蒲団の縁を掴んで歯をカチカチ鳴らして震え続けた。そして突然、「体が焼けるっ、頭が割れるっ」と大声でわめき、蒲団を蹴散らして床の上を転げ回った。(福島菊次郎『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』現代人文社2003)

 

 しかし1953年から3年間入院した病院の所見は次のようなものだった。

 

 科学的な諸検査と、可能と認められる臨床上のあらゆる方法をもって治療したが、ついに原因がわからず(中略)現代の臨床医学の面では治療不可能との結果退院…(『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』)

 

 それは、「原子爆弾の傷害作用に起因」していると証明できないし、何が「必要な医療」かもわからないから、「原爆医療法」で面倒を見ることはできないということを意味した。原爆病院も1960年になってやっと入院できたが、一か月で退院させられたのもそれが理由ではなかろうか。

 しかし、その後も中村杉松さんの原爆に遭った痛み、苦しみは癒えることがなかった。1967年に59歳で亡くなるまで、ずっと。