那須正幹さんの遺言44 横川駅前2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 矢口久代さんは当時、横川駅の北側にあった三篠(みささ)国民学校の5年生。8月6日、校庭で朝礼の最中に原爆の閃光を浴び、爆風に吹き飛ばされた。

 気がついてみると、服は焼け焦げてモンペの胴と足首のゴムの部分しか残っていない、パンツ一つだけの姿。体は火傷で腫れ上がり、右足の太ももは皮がむけて赤身が出ていた。それでも久代さんは、いとこの賢ちゃんと一緒に畑の中を転がるようにして逃げた。たどり着いたのは近くの三滝山の防空壕。

 

 防空壕はだんだん火傷をした人で一杯になって来ました。と同時に、だんだんと火傷の痛みが感じられて来るのです。私はもう堪えられなくなって声をあげて泣きました。賢ちゃんも泣き出しました。私たち二人ではありません。防空壕の中の人々はみんな声をあげて泣いたのです。(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』岩波文庫)

 

 防空壕の中では人が次々と死んでいった。怖いから外に出たくても外は黒い大雨。やっと雨があがって外に出てみたら、道路には体が真っ赤に焼けただれた恐ろしい姿の人たち。家のある横川の街はメラメラと燃えていた。家には足の不自由な祖母がいたはず。

 久代さんと賢ちゃんは、横川駅の西北、打越町にある叔父さん(賢ちゃんのお父さん)の家にたどり着いた。そこに両親兄弟も避難していたのだが、建物疎開に出ていた兄の顔は丸焼きになっていて、久代さんは一目見るともう二度と直視することができなかった。幼い弟も大火傷。「お母さん、お父さん」とひっきりなしに叫ぶのだが、両親が弟の手を握っているのがもうわからなくなっていた。みんなは、弟が息を引き取るのをただ泣きながら見ているしかなかった。

 9日、久代さんたちは江田島の病院に運ばれた。そこでできる限りの手当は受けたのだが、久代さんの火傷はなかなか良くならない。医者は言った。「この火傷の手当は、どうしたらよいのかわからないのだという事が今わかった」と。

 久代さんが熱にうなされている間、10日に兄が死に、21日にいとこの貞子姉さんが死に、27日には全身火傷だった母が死んだ。久代さんの姉は行方不明だが、爆心地、島病院の東隣にあった西警察署に仕事で出ていたのだから助かるはずもない。

 その間、8月15日には天皇のラジオ放送があったが、久代さんには何のことかわからなかった。9月17日の台風では江田島も大水害に見舞われたが、久代さんたちは運良く助かった。火傷がやっと良くなって横川に帰れたのは翌年2月のこと。その頃、久代さんたちを世話するのに一生懸命だった賢ちゃんのお父さんが亡くなった。

 

 賢ちゃんと私は、大八車にのって、今はじめて見る広島の焼跡を通りながら横川の新しい家に帰りました。すっかり変化した広島、家はあちこちに数えるほどしか立っておらず、昔の隣組の人は一人二人しか残っていないし、知らない人と知らない家ばかりになっていました。(『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』)

 

 そして家の床に置かれていたのは、おばあさん、お母さん、姉さん、兄さん、弟、叔父さん、貞子姉さんの7体の遺骨。久代さんは父親と二人だけになってしまった。もう呆然とするしかない。久代さんが再び立ち上がるには、それから長い時間が必要だった。