那須正幹さんの遺言33 似島2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

広島湾に浮かぶ似島、宇品島、金輪島(右から)

 福田安次さんは1944年4月から宇品の陸軍船舶司令部管船部に所属していた。任務は全国の港、航路で機帆船(小型木造輸送船)を船員ごと徴用すること。戦争末期になると日本の大型貨物線はほとんど沈められ、小型の漁船や輸送船がかき集められて戦地に向かった。だが、それは帰ることのない船出だった。そして福田さんが任官した頃には、戦況の悪化で外海に出ることも難しくなっていた。

 

 宇品の海は徴用した船でいっぱいで、船の上を跳んでいけば、沖にある金輪島へ渡れるんじゃないかと思うくらいの状態でした。そのころにはもう運ぶ物資がなかったんだと思います。(ヒロシマ青空の会『被爆証言集「無言の伝言を子供たちに」第四集 福田安次さんに聞く』2016)

 

 宇品港に運ばれてきた負傷者は次々とこうした船や艀(はしけ)に乗せられ似島に運ばれた。福田さんも3日間、一日10往復、多くの負傷者を似島に運んだ。

 8月6日午前11時33分、江田島にある陸軍船舶練習部第10教育隊に、似島に救護の隊員100名を派遣するよう命令が出た。

  船舶練習部第10教育隊は、マルレと呼ばれたベニヤ板製モーターボートに爆雷を積んで敵艦に突っ込む特攻隊(「海上挺進戦隊」)の訓練を行なっていた。その中の一人、義之(ぎし)榮光さんは訓練中、原爆が落ちてくるところからピカッと光り巨大な火の玉ができるまでの一部始終を目にした。何が起きたのかは分からなかったが、広島がひどくやられたのは間違いない。義之さんたちはマルレに乗って江田島から宇品に渡り、川をさかのぼって市内中心部へ入ってみた。

 

 石段があるんですよ。そこを(上陸して)トコトコ、トコトコと上がって行くと、産業奨励館(現・原爆ドーム)であったんですよね。「奨励館の所へ出て来たな」と、その時はもうボーンボーンと燃えているわけです。燃えているのはいいんだけども、人の姿が何も見えない。「これだけの街の中で、人の姿が見えないというのは、いったいこれはどういうことなんだ」と。

 それでよくよく見ると焦げてね、真っ黒焦げになったものがボコンボコンとある。「これは人でないのか」と、「そうらしい」と。「ええ? 人ってこんなに黒焦げになるものか?」と。(義之栄光「投下直後の広島で見たもの」NHK戦争証言アーカイブス2016)

 

 時刻は正午ごろか。もしかしたら原爆ドーム付近の目撃証言として最も早いものかもしれない。

 翌日から、義之さんは似島で負傷者の看護にあたった。大火傷の人たちに水を飲ませてはいけないと言われたが、義之さんたちは放ってはおけなかった。それが「末期の水」になろうとも、水を口に含ませた。

 

 黙って見てみると、「キュッ」と音がして、それが飲み込まれるわけです。喉のところがググッと動いてねえ、「キュッ」と音がするんですよ。それで、「飲まさったかい(飲むことができたかい)」、「水、飲まさったかい」と。「飲まさったね」、音がしたからねえ、その音がしていたからね。飲まさったのは分かっている。

 それが胃に届いたかどうかというくらいの短い時間の間に、「どう?」と聞くと、返事が無いんですよ、もう。スッと。目がね、薄く開いてチカチカチカと光っているんですよ。

 涙でね、目が光って見えるんです。(「投下直後の広島で見たもの」)

 

 その目は、すぐに動きが止まった。