那須正幹さんの遺言27 泉邸1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

被爆建物の福屋デパート

 『絵で読む広島の原爆』は、当時泉邸(せんてい)と呼ばれていた縮景園(しゅっけいえん)と京橋川、対岸の大須賀町の惨状を描いている。縮景園一帯は炎に包まれ、大須賀町はすでに焼け野原か。川面がまたものすごい炎の竜巻で、木片やトタン板、そして人間まで吸い寄せられて宙に舞った。

 那須正幹さんはこう記している。

 

 火災のもっともはげしかったのは午前11時から午後3時までです。火災に追いかけられ、人びとはなんとか安全な場所をもとめてにげまどいましたが、そんなところはどこにもありませんでした。炎は、広い川面でさえ、なめつくしたのです。(那須正幹:文 西村繁男:絵『絵で読む広島の原爆』福音館書店1995)

 

 広島地方気象台(当時)は広島市南西の江波山にあり、爆心地から3.6km離れていた。原爆さく裂直後の火災の発生について次のように記録している。

 

 江波山よりの観測によれば、火災は爆発後5分経過してから市中に点々と煙が立ち始め、爆発後30分後には既にかなり大きな火災群を舟入町、天満町、国泰寺町方面其他に見るに至り、10時〜14時頃最盛(広島管区気象台「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」文部省 学術研究会議原子爆弾被害調査委員会1953)

 

 当時15歳の河内貞子さんは広島貯金支局分室に動員されていた。場所は八丁堀の福屋百貨店7階で、爆心地からの距離は約700m。河内さんのいた部屋は建物の真ん中にあったので閃光は浴びず、少しのガラス傷で済んだ。暗闇の中を友人とともに1階まで階段を降りる。通用門のところには多くの人が折り重なるようにして倒れており、それを踏み越えるようにして外に出た。

 

 私と友人はともかく外へ出ることができたが、どこへ行けば安全なのか、それもわからなかった。   

 福屋の前には、電車が横倒しになっており、運転手が、車体のそばの地面に吹きとばされたような恰好で、仰向けになって死んでいた。どちらへ逃げようかと考えた。「風かみに逃げよう。」と直感した。そして、中国新聞社のビルを見ると、四、五階のところから大きな煙が噴き出ていた。また、私達の居る前の東宝劇場(旧福屋隣)からは、小さな煙があがっていた。

 私たち二人は、ふとんをかぶったまま、ヨロヨロと上流川町通りに出て、泉邸の方へ逃げていった。(河内(旧姓 石原)貞子「福屋七階から脱出」『広島原爆戦災誌』)

 

 同じ7階にいた進徳高女の教師馬場初江さんは、さく裂の瞬間に気を失った。しばらくして意識が戻ると暗闇の中から助けてという生徒の声が聞こえる。動ける生徒には避難の指示を与え、傷ついた生徒を背負って階段を降りようとした時、窓の向こうの中国新聞社ビル(今は三越のある場所)はすでに猛火に包まれていた。

 

 東の窓から、中国新聞社が、天空をも焦さんばかりに、猛烈な火柱となつて、燃え上つてゐるのが見える。黒い人影が、半狂乱のように右往左往してゐたが、救いを求めるかのように、両手を出して窓辺によりかゝり、そのまま動かなくなつてしまつた。私は、思わず眼を閉ぢた。福屋七階の此の職場に、学徒と私の白骨!あゝ、私はぞつとして身ぶるいした。(馬場初江「原子爆弾体験記」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 やっとのことで外に出ると、馬場さんたちも北に向かって逃げた。泉邸のそばを通ると、そこの松林にもまた炎が見えた。