那須正幹さんの遺言18 新大橋東詰3 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

広島市立高女原爆慰霊碑

 森本トキ子さんが娘の幸恵さん(市女1年5組)を似島で見つけたのは9日のこと。まだ息のあった幸恵さんは母親にこう語った。

 

 一時間作業し、八時休憩になり、誓願寺の大手の側で腰をかけ、友だち三人で休んでいると、ああ落下傘が三つ、きれいきれいと皆騒がれるので、自分も見ようと思い、一歩前に出て上を向くと同時に、ぴかりと光ったので、目をおさえ耳に親指を入れて伏せたら、その上に一尺はばもある大手が倒れ、腰から下が下敷きになり、頭の麦わら帽子は火がつき焼けていました。(森本トキ子「幸恵の言葉」『広島原爆戦災誌』)

 

 ちょうど休憩中だった市女の生徒は何人も崩れた土塀の下敷きになっている。1組の池田康子さん、瀬尾光世(てるよ)さん、信時佳代子さんの場合、「崩れたお寺の土塀を暁部隊の兵隊さんが取り除くと、牛田町から通っていた3人が抱き合うようにして死んでいた」。(中国新聞「ヒロシマの記録—遺影は語る 広島市女」2000.6.22)

 遺体が全部すぐに見つかったわけではない。4組の船越恵子さんや若狭泰子さんの遺骨が西福院の崩れた土塀の下から見つかったのは原爆が落ちて2年後のことだった。

 森本幸恵さんはなんとか土塀の下から這い出すことができた。塀が熱線を遮ったのだろう。額と右手に少し火傷があるぐらい。ところが周りを見て驚いた。

 

 長いことかかり、大手の下から出ることができ、あたりの友だちを見れば、皆、目の玉が飛び出し、頭の髪や服はぼうっと焼けて、お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて、先生助けてと、口々に叫んでおりました。(「幸恵の言葉」)

 

 吉島本町で被爆した河野静樹さんが天神町のわが家を目指して新大橋を渡り中島地区に入った時、まだあたりは火が出ていなかった。河野さんは9時か10時ごろだろうと言っておられるが、もっと早い時間だったかもしれない。

 

 新大橋を渡ってすぐ、角の風呂屋のあったあたり、見ると女学生がずらっと向こうの通りまで並んで倒れ、苦しんでいる。「『おかあちゃーん……、苦しいッ……。水ッ。水をちょうだいッ』と、苦しんどった。ひどいもんじゃった。(中略)服がボロボロになっとって……顔や唇がもうはれあがっとったが、目え閉じて、肩でホーッ、ホッと息ついてたもんもあった……」(志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会1969)

 

 中島地区は10時ごろになると猛火に包まれている。まだ命のある生徒は、防空壕や防火用水槽に入る者もいたが、多くは川に逃れた。市女2年生山崎仁子(さとこ)さんの父親益太郎さんが6日昼過ぎ、元安川の新橋のたもと、今の平和大橋の近くで見た光景。

 

 ああ、何たる悲惨。河原一面砂洲よりに無惨にも、何十何百の少女等が。或いは傷つき、或いは眠り、実は既に事切れしか。又は斃れ、あちこちに、僅かに蠢動し、かすかにウメキ声が聞こえる。

 驚くことには、どれもこれも、素っ裸である。

 シュミーズもスカートも焼け、身体は茹蛸のように赫黒色になっている。 (広島市女原爆遺族会『流燈―廣島市女原爆追悼の記―』1994再製作版)

 

 山﨑さんが息絶える寸前の我が子を見つけて連れ帰ろうとした時、近くで声が聞こえた。「叔父さん、わたしも連れに来てネ」と。「静かに待っといで。先生やお母さんが直ぐ見えるから」。山﨑さんは、そう答えるしかなかった。