那須正幹さんの遺言13 アメリカの狙い1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 那須正幹さんは『絵で読む広島の原爆』で、原爆がどのように開発されたのかを詳しく説明されている。多くの科学者、技術者、労働者はそれぞれ自分の仕事に熱心に取り組むが、では自分はいったい何を作っているのかをわかってはいなかった。そのようなことは今も世界の至るところで行われているような気がする。

 那須さんは原爆の仕組みについても事細かに説明されている。原爆は莫大な予算を投じ、当時の科学技術の粋を集めて作られたことがよくわかる。でも、できたものはこれ以上ない人殺しの道具だった。

 そして広島、長崎に原爆が投下されるまでの経緯。ここで、どうして広島市が選ばれたのかに注目したい。那須さんはこのように説明されるのだが。

 

 選考の基準は、大勢の従業員が働いている重要な軍需工場があり、住宅がたくさんかたまっているところ、爆発の威力が十分発揮され、その成果が観測しやすく、また国の内外に心理的効果が期待できるよう、できるだけ未破壊の都市であること、でした。

 なかでも広島は捕虜収容所がないため第一目標とされました。(那須正幹 文 西村繁男 絵『絵で読む広島の原爆』福音館書店1995)

 

 疑問がある。広島市内に捕虜収容所がなかった(捕虜のアメリカ兵はいた)から原爆投下の第1目標となったのが事実だとしても、それは特記されるべきことなのだろうか。アメリカは最初からウラン型とプルトニウム型の2発の原爆を使うことを決めていた。第2目標の小倉市(現 北九州市)と第3目標の長崎市のどちらにも捕虜収容所があるのはアメリカも知っていたのだから、連合国軍兵士の頭上で必ず原爆がさく裂することも承知の上だったはずだ。

 なぜ広島が選ばれたのか。その理由はいくつも言われるが、何が重要なのか、どれがアメリカの本音なのかを見分けることが大事だと思う。もしかして、那須正幹さんはそのことを読者に求めているのだろうか。

 ところで長崎市には幸町の長崎三菱造船所内に「福岡俘虜収容所第14分所」が置かれていた。爆心地からの距離は約1.7km。イギリス人1人、オランダ人7人が原爆で命を失い、30〜50人の捕虜が負傷した。被爆した捕虜のひとりオーストラリア人のレネ・シェーファーの証言が残されている。

 

 …ベアは、間違いなくもっともひどいやけどを負っていた。彼は、あの瞬間、胸をはだけて立ち、飛行機から投下された原爆の落下傘を見入っていたのだ。彼の体は原爆の閃光に焼かれてしまった。彼の苦しみの声が聞こえてくる。“レネ、私の耳元でライオンがほえている”。彼の耳のなかには、鼓膜にいたるまでウジ虫がつまっていたのである。しかし、私たちはなすすべもなかった。彼の耳をきれいにするためにどうすることもできなかったのだ。8月18日、彼の苦しみは終わった。(福林徹「日本国内の捕虜収容所」ウェブサイトPOW研究会)

 

 長崎で原爆の爆心地になるはずだったのは、市内中心部、中島川にかかる常盤橋あたりと見られている。有名な眼鏡橋も近いところだ。三菱の造船所など軍需工場に原爆投下の照準点をさだめたのではなく、市街地の上空で原爆をさく裂させようと計画したのだから、狙いは市民の殺戮だ。そしてそのためには、連合国軍兵士捕虜の命も気にかけることはなかった。