「軍都」壊滅103 最後の軍隊19 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 中国新聞の大佐古一郎が国民義勇隊(義勇戦闘隊)の話を聞いたのは1945年3月25日のことだった。

 

 「敵がわれわれの郷土や職場に侵入しようとしているとき、銃や竹槍を持ってこれに立ち向かおうとする気概は、老若男女の間で自然に盛り上がっている。こうした国民の愛国運動を生かして、正規の陸海軍部隊のほか国民の部隊をつくり、それを制度とするのは行政の当然の仕事だ」

 「戦局がどのように変化しようと、最後まで郷土で生産に従事しているこの国民を十数時間以内に動員して、能力相応の戦力にしようというのが義勇隊である。…(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 1941年12月に始まったアジア・太平洋戦争における日本軍人・軍属の戦没者は約230万人。歴史学者の吉田裕さんは、このうち9割近くが1944年1月以降に亡くなったと推定する。(吉田裕『日本軍兵士—アジア・太平洋戦争の現実』中公新書2017)

 そこで日本の軍部は国内、さらには朝鮮や台湾、「満州」において徹底的な動員を行ない兵力の確保に躍起となったが、限界があることは誰の目にも明らかだった。今度は農業や工業の生産力がガタ落ちとなっていったのだ。やむをえず普段は田畑や工場で仕事をして、緊急事態になれば召集して軍服に着替えさせるというアイデアが国民義勇隊(義勇戦闘隊)だった。義勇隊は地域ごとにつくられ、役所や大きな会社・工場では職域義勇隊が組織された。

 中国新聞社で義勇隊が発足したのは6月16日。「国民義勇隊則」にはこう書かれていた。

 

 当面緊急ノ生産オヨビ防衛ノ飛躍的強化ニ資スルトトモニ、戦局急迫セルトキハ軍ノ要請ニ従イ直チニ義勇戦闘隊トシテ挺身総出動シ作戦行動ニ協力スルヲモッテ目的トス(『広島昭和二十年』)

 

 国民義勇隊は、下は今の中学生から、上は男が65歳、女が45歳と定められた。実際にやったことは横穴陣地や飛行場などをつくる作業、建物疎開などで、空襲の際は消火活動も義務付けられた。

  中国新聞の『呉空襲記』に安藤登代子さんの回想がある。

 

 焼イ弾が落とされたら〈自分の家は自分で守れ〉と命令が出ていました。隣保班ごとにお宮に集まり、松の木に水をかける訓練や、骨折した場合の添え木包帯の巻き方など一心に勉強しました。そのうち私たちの入るごうを掘ることが決まって、女ばかりで山のマサ土をツルハシで掘りました。おなかに力がないので、気ばっかり焦ってもなかなか掘れませんでした。(中国新聞呉支社『改訂版 呉空襲記』中国新聞社1975)

 

 しかしいざ空襲となり焼夷弾の雨が降ってくると消火活動は無力だと思い知らされた。当時21歳の秦寛子さんが証言する。

 

 市の三方の山が火に包まれ、街中のあちこちも燃え上がっている。近所の小泉のおばあちゃんの家が燃え始めた。ひとりで道端にある手押しポンプをギッコンギッコンこいでバケツに水を入れ、それを持って二度、三度走った。(中略)町内の人々はどこに消えたのか見えない。いつもメガホンを手に命令叱咤した防空班長など初めから姿を見せぬ。(『広島昭和二十年』)

 

 「面従腹背」と言われるかもしれないが、たいていの人は知っていた。焼夷弾が落ちてきたら、一目散に逃げるのが正解なのだ。