「軍都」壊滅102 最後の軍隊18 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 中国軍管区・第59軍司令部の庁舎や防空作戦室は、福岡の西部軍管区・第16方面軍司令部や大阪の中部軍管区・第15方面軍司令部と比べてもかなり貧弱だった。

 貧弱なのは第二総軍も同じで、司令官の畑俊六は、「司令部の設備等は極めて簡素なるものなりし」と感想を述べている(畑俊六「第二総軍終戦記」1954『広島県史近現代資料編I』)。

 中国軍管区・第59軍も第二総軍も戦争末期の急拵えの産物。貧弱なのも当たり前といえば当たり前だった。

 そして戦闘集団である第59軍は、「本土決戦」の戦況によってはどこに移動するかわからない。少々粗末でも我慢するしかなかったか。

 第59軍司令部配下の部隊も、大本営の「本土決戦」の方針により、ほとんどが日本海沿岸に張り付いていた。ただ「赤穂兵団」だけは広島にいたが、これは被爆当時まだ編成中で、編成が完了したら中部地方に移動することになっていた。そうなると広島は、「軍都」と自慢しても、肝心の軍隊がいないことになってしまう。

 いや、広島にはまだ「暁部隊」がいたと言われる。宇品の陸軍船舶司令部配下の部隊で、当時広島市内に駐屯していた将兵は5000〜6000人との証言がある。(『広島原爆戦災史』)

 これらの将兵は戦争末期には確かに「本土決戦」要員ではあった。しかし本来の任務は陸軍の兵隊や物資の海上輸送だ。自前の武器は限られている。

 「暁部隊」には戦闘部隊もあるにはあった。船舶練習部第十教育隊という水上特攻部隊だ。20歳前の青年が約1500人、10個の海上挺進戦隊に編成され、「マルレ」と呼ばれたベニヤ板製のモーターボートに250キロの爆雷を積んで敵艦に突っ込む訓練をしていたのだ。(『広島原爆戦災史 第5巻「被爆者救援活動の手記集(暁部隊)」)

 8月6日には九州の五島列島に向かう予定の戦隊もあった。他の戦隊も準備が整えばアメリカの艦船が集結する海域に向かったはずだ。

 要するに、「暁部隊」も広島を守る部隊というわけではないのだ。

 なお、堀川惠子さんの『暁の宇品』(講談社2021)によれば、アメリカ軍は最初「マルレ」の奇襲攻撃に驚いたものの、すぐに海上に機雷をばら撒き、魚雷艇による「特攻艇狩り」も始まったという。たった一つしかない命を投げ出しても、「マルレ」が「戦果」を上げられる可能性は限りなく低かった。

 では広島を防衛する軍隊は存在しなかったのかというと、あるにはあった。広島地区特設警備隊、そして国民義勇戦闘隊だ。学校の生徒、工員、農民らが、緊急事態になると武器をとって軍隊と一緒に戦ったりゲリラ戦をしたりするのだとか。

 それはすでに沖縄で実際に行われていた。

 

 当時駐屯していた部隊長の命令で、権限もないのに強制的に召集したわけですね。

 しかしこれが名誉だと思っていたわけです。日本軍の手助けをするのが軍国少年としての名誉だと思って召集を受けた時には喜びましたよ。

 よくいわれるのは、15歳で戦力として役に立ったのかとよく言われるんです。時の15歳は大人ですよ。体はそんなに成長していなかったけど精神的にはもう完全に大人。(垣花武一「義勇隊(少年兵)へ招集されるのは名誉なことだと思っていた」座間味村平和・未来プロジェクト)

 

 そして当時15歳の垣花さんは手榴弾を2個渡された。そのうちの1個は「自決」用。死ぬことも、大人と一緒にされたのだ。