「軍都」壊滅99 最後の軍隊15 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 中国軍管区司令部の松村秀逸参謀長は広島放送局近くの官舎で被爆したが何とか助かった。もう一人即死を免れたのが参謀の青木信芳中佐だ。被爆時の様子を松村参謀長に語っている。

 

 参謀室は、玄関の上の2階にあったのだが、ピカ・ドンをくらった時は、細井と鈴木とは南の窓に背を向けて、大きな机の前に腰掛けていた。青木はその机の向う側に立って、二人と話をしていたところだった。猛烈な勢いで、爆風が窓をたたきこわして侵入して来た時、細井と鈴木は、キャッと言って机にうつぶしたまま、それっきり即死、青木は階段の上り口のところに吹き飛ばされて階下に転がり、倒れた家の中から匍い出して来たのである。不思議にも微傷だに負っていなかった。(松村秀逸「原爆下の広島軍司令部」『実録太平洋戦争 第6巻 銃後篇』中央公論社1960)

 

 青木少佐は無傷だったわけではなく、背中に棒切れが突き刺さっていたと比治山高女の岡さんや荒木さんが証言している。そして急性放射線障害により8月30日、原爆で即死した妻と二人の子どもの跡を追った。(「中国新聞」2019.11.29)

 他の参謀は、細井実中佐、鈴木主習中佐が司令部庁舎内で即死。遠藤正美少佐が出勤途中で被爆して死亡。あと一人の参謀が消息不明だが、警報発令が遅れたことと、「師団長閣下以下皆自宅や兵舎にひきあげられた」という恵美敏枝さんの証言からすれば、被爆時に防空作戦室にいたとは考えにくい。そうなると、広島に原爆が投下された時、警報発令や空襲の情報を出す権限を持った人間が防空作戦室内に一人もいなかったことになる。

 白井久夫さんは『幻の声 NHK広島8月6日』(岩波新書1992)の中で、広島放送局の古田正信アナウンサーが読みかけた情報は呉海軍鎮守府から届いたものだと断定されている。中国軍管区司令部から届くはずがないから同じ中国地方の防空情報を入手している呉鎮守府からと考えてもおかしくはない。

 が、私は違うのではないかと思っている。呉海軍鎮守府司令長官が警報発令・解除できるのは呉軍地区、山口県の徳山地区、内海西部海面域に限られるのだ(広島市文化財団広島城『しろうや!広島城No.45』2015)。広島放送局に情報を送るのはともかく、それを広島市内に向けて放送させたら陸軍に対する越権行為になるだろう。

 それに『幻の声 NHK広島8月6日』にも引用されている次の資料がある。

 

 八月六日午前八時ごろ、甲山町監視哨・三次監視哨などから、米機三機広島に向うとの報告が、呉鎮守府司令部地下作戦室に直通電話で入り、ただちに警戒警報が発令された。(中略) 前記の防空監視哨からの通報に続いて、中国軍管区司令部参謀部と広島地区司令部から、敵機侵入の情報連絡があり、呉地区に空襲警報を発令した。

 その午前八時十五分頃、原子爆弾が広島市に投下されたのであった。(『広島原爆戦災史 第1巻』)

 

 白井さんはこの資料について全く検討されていないが、「中国軍管区司令部参謀部」から呉鎮守府に原爆さく裂の直前に「敵機侵入の情報」が届いていたというのだ。だったら広島放送局にも中国軍管区司令部から情報が伝達されてもおかしくないことになるが、B-29爆撃機の音に気付いたかどうかも怪しい中国軍管区司令部の参謀たちにそんなことが可能だったとは考えづらい。