「軍都」壊滅98 最後の軍隊14 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

半地下壕の窓の扉は警戒警報で閉めるはずだった

 

 日本時間の8月6日午前1時45分、エノラ・ゲイ号がテニアン島を離陸した。観測機のグレート・アーティスト号とネセサリー・エビル号が後に続く。6時間半の飛行の後、3機は徳島県の大島から四国山地を越えて香川県の三崎半島、そして8時4分には広島県三原市の上空に達してそこで針路を西にとった。その頃には地上からも機影が目撃されている。(『広島原爆戦災史』)

 

 〇八〇六松永監視哨ハ西北進中ノ敵大型二機ヲ発見〇八〇九更ニ同哨ヨリ三機ト訂正(中国軍管区司令部「八、六広島市被害状況」『広島原爆戦災史』)

 

 この情報は中国軍管区司令部の防空作戦室にも伝えられた。しかしその時指揮連絡室にいた岡ヨシエさんによると警報発令はすぐにはなかったという。岡さんは「一体どうしたのだろう」と心配した。(指田和『ヒロシマのいのち』文研出版2017)

 ようやく「〇八一三  ヒロシマ・ ヤマグチ ケハ」と書かれたメモが防空作戦室から出た。「ケハ」は「警戒警報 発令」の略語だ。

 

 私は警報を各司令部、報道関係に知らせる役目をして居たので、交換機に一度に数本のコードをさして相手をよんだ。(何時もの事なのでさほど緊張感はなかった。)一せいに出た相手の方に、「広島山口、警戒警報発令」を言いかけた途端ものすごい紫色の閃光が目を射り、何か事故が…と思う瞬間、意識を失った。(岡ヨシエ「交換台と共に 」『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』旧比治山高女第5期生の会1969)

 

 この時、半地下壕の窓は開いたままになっていた。人も電話機も交換機も全部爆風で吹き飛ばされてしまった。同じ部屋にいた荒木(旧姓板村)克子さんも「警戒警報」を送信している最中に「ピカッ!電気のショートかと思ったとたんドカーン。机上の電話機はふっとび」と証言を残しておられる(荒木克子「軍管区指令部に動員されて」『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』)。警報は間に合わなかった。

 しかし、それとは異なる証言がある。当時広島市の上流川町(現 中区幟町)にあった広島中央放送局(現 NHK広島放送局)でのことだ。

 

 途端にスタジオ脇の警報連絡室から、警報発令合図のベルが鳴った。軍管区司令部から情報のはいった時に、アナウンサーに知らせるためのベルである。スワ!とばかり、古田アナウンサーは第二スタジオ脇の警報事務室にかけこんだ。

「午前八時十三分、中国軍管区情報、敵大型機三機が西条上空を西進しつつあり、厳重な警戒を要す。」 古田アナウンサーは廊下を足ばやに歩きながら、ざっと原稿に目を通し、スタジオへ入るなりブザーを押した。 時に八時十五分! 「中国軍管区情報、敵大型機三機西条上空を」と、ここまで読みあげた瞬間、メリメリッとすさまじい音、鉄筋の建物がグラッと傾くのを感じ、フワァーッ!と、体が宙に浮上った。(『広島原爆戦災史』)

 

 岡さんや荒木さんらは警戒警報発令を伝えることができなかったと証言されているが、一方、広島放送局には「中国軍管区情報」が送られてきたという。それは誰が、どこから、どうやって送ってきたのか。