「軍都」壊滅94 最後の軍隊10 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 アメリカの爆撃機や戦闘機が大挙押し寄せてきても日本の飛行機は出てこない、広島の対空砲火も当てにならない。そうなると警報が聞こえたら一目散で防空壕に逃げ込むしかない。中国新聞の大佐古一郎の借家では前年暮れからの防空壕作りが1945年3月9日になってやっと完成した。大佐古の妻は、「わが家もとうとう戦場ね」と呟いた。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 しかし市内中心部となる大手町の住宅密集地に小さな防空壕を掘っても爆弾が直撃したら終わりだし、焼夷弾攻撃であたり一面火の海になったら蒸し焼きになってしまいかねない。呉市では大規模な横穴式防空壕がいくつも作られていたが、7月1日の空襲では煙や炎が壕内に入って多くの人が亡くなった。

 

 「明法寺裏のごうから引き出された死体は黒焦げになっていて、だれか見分けがつかなくなっていました。母親が子供に添い寝をしたままの死体、子供の頭髪がピーンと張っていたのが忘れられません。(中国新聞呉支社編『改訂版 呉空襲記』中国新聞社1975)

 

 6月14日、大佐古一郎は借家を引き払い、広島市近郊の府中町に引っ越した。軍需工場の東洋工業のすぐそばだから空襲の心配はあるが、裏山には横穴式の防空壕もあるので裸同然の大手町より安心だと考えたのだ。大手町の借家には記者クラブに雇われているおばさんが入ることになった。おばさんが住んでいる材木町の家が近く強制疎開になるのだ。一方、大手町の借家の家主は倉庫会社の社長。宮島沿線の阿品の別宅に疎開している。そこなら爆弾や焼夷弾の心配はない。戦時下にあっても、身分や貧富の差によって疎開先が違ってくるのだった。

 では軍隊はどうだったろうか。第二総軍司令部は発足すると、すぐそばの二葉山山麓に横穴を掘り始めた。小倉豊文の『絶後の記録』に詳しく書かれている。

 

 二葉山の洞窟というのは、第二総軍設置以来「本土決戦」の洞窟司令部として、その山腹に掘ったもので、当時は七分通りできていて、八月六日以後は司令部として利用していたばかりでなく、関係者はその内に居住もしていた。かなり大規模なもので、饒津の鶴羽根神社のやや東方少し上がったところに入口があり、そこから東照宮の背後より尾長の天満宮や国前寺の背後あたりまでに及ぶ縦坑の途中数カ所に横坑をくりぬいて、東練兵場方面に開口していた。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)

 

  しかしこの横穴陣地も原爆には役に立たなかった。第二総軍司令部そのものが木造の建物ごと原爆で壊滅したのだ。同盟通信の中村敏記者が8月8日ごろにこの「穴倉」に入っている。

 

 横穴にはいって見た。冷えびえとする。重傷の参謀が苦しそうにときどきうなる。ろうそくの灯がゆれている。この穴倉が大阪以西の本土を防衛する作戦中枢なのである。(中村敏「ヒロシマ、その日」池田佑編『大東亜戦史9国内編』富士書苑1971)

 

 なお、もう一つの第一総軍司令部があったのは東京の市ヶ谷で、陸軍の総本山だから、地下には早くから鉄筋コンクリートの頑丈で立派な壕が作られていた。これが「帝都」と「軍都」の違いだろうか。