「軍都」壊滅91 最後の軍隊7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1944年秋、長野県の松代一帯で大規模な地下壕工事が始まった。「本土決戦」のどこかでアメリカ軍に大打撃を与えて少しでも有利な講和に持ち込むまで、天皇と政府や軍の首脳はそこに籠るつもりだったとか。しかしそれでは戦いが国内の至る所でいつまでも続くことになる。広島も「この地方が一番安全地帯」と、のんびりしているわけにもいかない。まず心配なのが空襲だった。

 広島逓信病院の院長蜂谷道彦は8月2日、従弟の将校にぶつぶつと文句を言った。

 

 ……こう物がなくなり、兵隊がお粗末になっては戦いは敗けだ。兵営の屋根の上へ揚げた防火用水の樽などはナンセンスだ。川と空地の多い広島などへ焼夷弾など落とす馬鹿がいるか。私は爆撃と思う。広島の高射砲など屁のつっぱりにもならん。飛行機はなし……。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)

 

 アメリカ軍機が悠々と広島の上空を飛んでいても日本の戦闘機が出てきたためしはなかった。となれば高射砲で応戦するしかないが、蜂谷道彦は「屁のつっぱり」にもならないという。

 第二総軍司令官の畑俊六はこう書いている。

 

 加之第二総軍方面の防空設備は頗貧弱にして、広島の基地さへ漸く司令部の東方山上に二門、宇品に四門の高射砲を有するに不過。之に反して海軍は尚相当に防空火器を有し、呉軍港の如きは殆んど毎日に近き空襲を受けたるも克く之を撃退し得たる模様なりし。(畑俊六「第二総軍終戦記」1954『広島県史近現代資料編I』)

 

 第二総軍司令部が入ったのは、広島駅裏の二葉の里にあった元騎兵第5連隊司令部の2階建て木造の建物だった。爆心地からは1.8kmばかり離れていたが、それでも建物は原爆の爆風で瞬時に倒壊し焼失している。すぐそばの二葉山に掘っていた地下壕もまだ未完成。畑俊六は、士気旺盛な九州に比べて中国、四国の人心は「風馬牛」のようだ、つまり「我関せず」だと貶しているが、広島の陸軍の空襲に対する備えの方も、いささかのんびりしていたようだ。

 畑俊六の記録する広島市の高射砲配置はいつ時点のことか不明だが、4月30日にあったアメリカ軍機の爆弾投下以後、広島市への高射砲配備も急がれてはいたようだ。『広島原爆戦災史』などをめくってみると、「司令部の東方山上」(二葉山の今の仏舎利塔あたり)や、G7サミットが開かれるホテルのある元宇品以外にも、江波山や似島、吉島飛行場などに高射砲陣地があった。

 しかし、陣地はあっても装備は不十分というのが実情だったようだ。打越町の安芸高等女学校の「運動場には高射砲隊がおり、高射砲六門を据えていた。もっともそのうち五門は木製で疑装用、他の一門は本物とはいえ旧式の練習用のものであった」(『広島原爆戦災史』)という。

 中国新聞記者の大佐古一郎は1945年3月19日の呉空襲を広島市内から見ている。

 

 東南の上空を望見すると。あっ、いる、いる。パッパッと破裂する弾幕の間を、黒い敵機が三機、五機と西南進している。海田の上空数百メートルらしい。その後から鳩の群れのような編隊が来る、来る、また来る。弾幕の中へ突入すると急降下してスーッと南方へ飛び去る。高射砲弾はいたずらに上空に無数の白点を残すだけで一機も落ちない。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 弾が当たらないのでは高射砲をいくら集めても、確かに「屁のつっぱり」にもならない