広島を「最後の牙城」にするどころか、中国地方に配置された部隊はたったの2個師団。しかし、第2総軍司令官の畑俊六にとって、それはやむを得ないことだった。
第2総軍が早急に取り組むべきことは、アメリカ軍が上陸してくると予想される九州南部に重点的に部隊を配置することだった。「満州」から2個師団を引き抜き、北海道からも1個師団を持ってきて九州に置いた。そして1945年になってすぐに全国で「根こそぎ動員」して新設した45個の師団のうち10個の師団が九州に配置された。広島など中国地方は後回しするしかないし、置くとしたら日本海沿岸になる。
硫黄島の戦いや沖縄戦は沿岸部から一歩退いての持久戦でアメリカ軍を足止めしようとしたが、大本営は、「本土決戦」は「絶体絶命の最後の一戦」であり、「本土は悉く決戦場なり、持久戦なるものなし」と強調して次のように方針を定めた。
敵を破り得るはその上陸後未だ橋頭堡を構築せず、態勢整わざる間ならざるべからず。従って陣地は海岸近くに選定し、果敢迅速なる決戦を指導するを要す。(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土決戦準備〈2〉九州の防衛』1972)
アメリカ軍が上陸して飛行場を確保したら日本全土逃げるところはない。水際でアメリカ軍を撃破しない限り勝ち目はないというわけだ。ただし、これまで水際で撃破されたのは常に日本軍だったのだが…。
畑俊六は1945年4月に広島市に着任すると5月下旬に四国を、6月下旬には宮崎県や鹿児島県沿岸を見て回っている。鹿児島県の志布志湾一帯などは武器弾薬を空襲から守る大規模な地下壕が掘られていた。しかし同じ鹿児島県の吹上浜に駐屯する日本軍のみすぼらしい姿を見て地元の人が心配したことは前に書いたが、志布志湾も同じだった。終戦直後に西日本新聞がこう報じている。
日本軍には随分ひどい部隊があった、四十歳を超えた兵隊たちは何といっても体力において十分でなかったし銃剣や小銃をもたぬ中隊もあった。これらが上陸米兵とどうして戦ふのかとさへ思った。(「西日本新聞」2020.10.31)
畑俊六の目も節穴ではない。
…防御設備にしても肝心の鉄とベトンがなく、凡て脆弱なる積土、除土作業なれば、沖縄流に艦砲爆撃の目茶苦茶なる攻撃に遭へば、一たまりもなく吹き飛ばされる…(畑俊六「第二総軍終戦記」『広島県史 近現代資料編1』)(ベトンとはコンクリートのこと)
また九州の兵の士気は旺盛だと畑は評価するが、武器がなければ話にならない。
歩兵の如きは師団に於て銃器、銃剣に於て半数にも達せず、中には町工場に於て製作したるもの、甚だしきは竹製の剣鞘を帯したるものあり。手榴弾の如きも民間の創意に依るものもあつたが威力云ふに足らず…(「第二総軍終戦記」)
畑俊六は密かに確信した。水際作戦でアメリカ軍を撃破することは不可能だ。とすれば、結局はどこかに後退して持久戦でチャンスを待つしかない。「総軍司令部の如きは山陰山陽国境付近に退転」とも考えた。それは第二総軍司令部が広島市から逃げ出すということだが、行き先は、もしかして総武兵団歩兵第319連隊が駐屯する蒜山高原か。やはり広島市は、「最後の牙城」とはなりそうもなかった。