「軍都」壊滅79 食糧6 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1944年に「高田開拓団」は畑20ヘクタールでトウモロコシや大豆などを栽培し、よくできた。しかし「満州」全体から見ると、開拓移民の食糧生産は微々たるものだった。当時の資料によると、1942年度の「満州」全体の農業生産量に対する開拓地の割合は0.65%。そして政府は1945年度に開拓地で6倍の増産を見込んでいるが、それでも全体の2.54%だ。(細谷亨「満蒙開拓団と食料問題・異民族支配」政治経済学・経済史学会『歴史と経済 第239号』2018)

 やがて開拓団員にも召集令状が来るようになると、労働力不足が深刻となった。「開拓団は建設五ヶ年は兵役招集免除」となっていたのだが、その約束を反古にするくらい戦況が厳しくなっていたのだ。関東軍は1941年ごろには「無敵」と謳われたようだが、ソ連との戦闘がない中で有力な部隊が次々と沖縄や「本土」に引き抜かれ、1945年には現地で「根こそぎ動員」を行なって兵隊の人数は帳尻を合わせたものの戦力はガタ落ち。まさに「張子の虎」だった。

 1945年7月、「高田開拓団」の宮地文雄さんにも召集令状が来た。

 

 「これが最後ね……」妻はしみじみ言う。「元気で帰るよ。もし日本が負ければ、おれと一緒に死ぬるんだ」。“一緒に死ぬる”この気持ちになんのうそいつわりもなかったのだ。馬車に乗って出征した。妻に抱かれた光男は無心に手を振ってくれた。長い長い一本道、妻はいつまでもいつまでも立っていた—。(「中国新聞」1970.8.9)

 

 1945年8月の時点で「高田開拓団」の団員は246人。成人男性29人が兵隊に取られていたので、成人女性や子ども186人に対して成人男性はたったの60人だった。(広島県民の中国東北地区開拓史編集委員会『広島県満州開拓史』1989)

 「高田開拓団」は8月9日のソ連参戦を知らされず、15日の敗戦もその日の夕刻になって現地の人たちが「日本人は敗けた。日本人、帰れ」と迫ったことで初めて知った。18日早朝、「高田開拓団」の一つの集落で「集団自決」が起きる。亡くなった20人の中には宮地さんの妻と幼子もいた。

 「高田開拓団」はそれからも苦難の連続だった。服は夏衣のまま、毎日薄い水のような粥を啜った。飢えと寒さで多くの人が冬を越すことができなかった。中国の人に預けられる子どもも出てきた。やっと日本に帰れたのは1946年の7月。

 けれど本土まであと2日という時に船の中で死んだ10歳の女の子、両親を失いながらやっと故郷の村にたどり着いたものの、衰弱がひどくて一か月後に亡くなった10歳の姉と5歳の弟。「高田開拓団」の死亡者153人中「病死」が112人を数える。「満州開拓団」は中国において「侵略者の手先」となり、そして棄てられたのだ。

 今から30年前、勤めていた高校に「中国残留孤児」だった人の子どもが入学してきた。私たち教員は宮地文雄さんから「満州開拓団」と「中国残留孤児」について学んだ。

 宮地さんは部隊が解散した撫順(フーシュン)から20日間かけて「高田開拓団」の跡にたどり着いた。そこに見つけたのは我が子の泥だらけのチャンチャンコだけ。悔やんでも悔やみきれない。自分一人だけ生き残った宮地さんは、2012年に93歳で亡くなられるまで、不戦の誓いを胸に中国からの帰国者の支援に力を尽くされた。