「軍都」壊滅78 食糧5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆で5人の子どもを一度に亡くした秋山アサコさんも、当時子どもたちに満足に食べさせてあげられなかった悔恨を手記に綴っておられる。

 

 戦争は、だんだん深刻になって食糧難になり、一食分は外米と大豆を混合したものがお茶碗に一杯(八分目)くらい、ときには鉄道草とぬかのまじったお団子を食べました。二つ目は、咽喉がイガイガして通らないこともありました。(秋山アサコ「五人の子どもを失う」原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局編『流灯 ひろしまの子と母と教師の記録』1972)

 

 インディカ種の外米は、当時の日本ではパサパサしてまずいと嫌われた。それに大豆の煮たのを混ぜるのだから、さぞかし食べるのに苦労したことだろう。

 中国新聞の大佐古一郎は7月26日の日記にこう書いている。

 

 きょうの配給はだいこんが一人二銭ずつで、あとは満州から送られた大豆が野菜の代わり。このところ大豆や玉蜀黍(とうもろこし)の配給が多く、役所でも社でも腹をこわして便所へ何度も通う人が多くなった。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 大豆は「満州」からの輸入だった。20世紀に入ると中国東北部(「満州」)で大豆の生産が飛躍的に伸び、大豆油と油を絞った残りの大豆粕が盛んに輸出され、日本ではそれまでの〆粕(ニシン粕)に代わって大豆粕が主要な金肥(販売肥料)となっている。そしてやがて大豆そのものが必要とされたのだ。

 1905年に日露戦争が終わると日本の「満州」への侵略が本格化する。1931年には「満州事変」を起こし、翌年に植民地である「満洲国」をつくった。そしてそこには1930年の農産物価格の暴落、31年の大凶作に翻弄された農村から多くの「開拓移民」が送られた。

 高田郡吉田町(現 安芸高田市)の小作農家に生まれた宮地文雄さんは、「行けばたちまち大地主」と聞かされて「満州」にあこがれた。家では養蚕をやっていて、小学校3年生にもなると背負い籠に3杯の桑の葉を摘むのが日課だった。しかししばらくすると世界恐慌で繭の値段は暴落。以後、養蚕業は急速に衰退し、農家は貴重な現金収入源を失った。

 宮地さんはその頃長男が生まれたばかり。それでも「満州」に行きたくて渋る妻を説き伏せた。(「中国新聞」1970.8.9 1982.12.21)

 広島県北部の高田郡で「高田開拓団」の先遣隊が広島を出発したのは1944年1月。以後、翌年6月まで98世帯、296人の団員が「満州」吉林(チーリン)省の地を踏んだ。

 戦争末期、「開拓団」の目的は何がなんでも食糧の増産だった。入植予定地は地味肥沃な畑地。団員は「荒地を開墾するより直ぐ収穫のある既墾地の広大な土地を与えられる」と喜んだ。しかしそれは現地の人から問答無用で取り上げたものだった。住居も同じ。

 

 買収現場に居合わせたある開拓団員は「買収が宣告されると、その家の老女が土下座して泣きついた。子供が病気だから、せめて治るまでと哀願する。無視して一方的にことを運んでいた。現地人の立場にたてば、終戦直後のあの襲撃の気持ちも十分にわかる。」それが度重なる襲撃の中で生きてきた開拓団員の述懐であるところに重みがある。現地人にとっては、開拓団は“招かざる客”であり、“侵略者の手先”であっただろう。(「中国新聞」1979.8.1)