阿嘉島では島の人たちも食べ物がなくて飢え死にしそうだった。しかし日本軍は島の人たちが自分の家の畑から芋、野菜を持ち出すのを禁じ、持ち出すのを見つけたら半殺しの目にあわせた。島の人たちにとって、死はいつも目の前にあった。
今から考えてみると、当時は死ぬというのが当然に思えていて、先に死んだ人が道に横たわっていると「早く死なれてよかったね。私達はもうすぐで死ぬからね」とか、どうしても上をとびこえないといけないときは、「ごめんなさいね。ちょっと失礼」ととびこえたこともあった…(宮平ウメ子「炊事班」『沖縄県史』)
けれど、何かきっかけさえあれば、「生きられる間は生きようじゃないか」という思いがよみがえる。6月ごろからアメリカ軍は、絶対に殺すようなことはしないからと投降を呼びかけ、日本軍に隠れて浜辺で手をふればゴムボートで迎えに来てくれた。また島の人たちは日本軍将兵の中にも変わった考えの人間がいると知って驚いた。
当時15歳の中村仁勇さんが語る。
私の知っている少尉で、染谷さんという人がいて、私の母が婦人会に関係していましたから、ちょいちょい家にやってきたんですが「阿嘉の人は、いったい日本は勝つと思っているのかなあ」と言ったりしたもんです。当時の私たちには、日本が敗けるなどとは考えてもみなかったのですから、日本の将校ともあろうものが、よくもそんなことが言えるものだとびっくりしたのを覚えています。(中村仁勇「青年義勇隊」『沖縄県史』)
染谷少尉はアメリカ軍が上陸してくると、朝鮮人軍夫の人たち20人ぐらいと一緒に白旗を掲げてさっさと投降した。そしてその後はアメリカ軍の船から日本軍兵士や島の人たちにスピーカーで投降を呼びかけたのだった。
宮平ウメ子さんも染谷少尉のことはよく覚えている。
彼は「もしこの島に敵が上陸してきたら、兵隊は国のために死んではいけないよ。いや、むしろ兵隊たちでも命は大切にしなければいけないがね。命があってこそ国は守れるんだ。だから私は絶対死なない。敵が上陸したらすぐ逃げるんだ」と口ぐせのようにいう…(「炊事班」)
染谷少尉の話を聞いた時は、みんな彼に反感を持ったという。でも染谷少尉のような人がいたからこそ、6月22日に野田隊長が兵士以外の投降を認めた時、多くの人たちがアメリカ軍の保護を信じて山を下りる気になったのではなかろうか。
阿嘉島の日本軍が降伏したのは日本の「終戦」よりもずっと後の8月23日だった。けれど沖縄の戦いはこれで終わってはいない。沖縄の最も西にある久米島では8月15日以降も、山中に逃げ込んだ日本兵の集団が、朝鮮の人を含む島の住民をアメリカ軍に好意を寄せたとして殺害している。殺された人は兵士も含めて20人以上。
「戦争というのは、人間を人間でなくす恐ろしいものである」と垣花武一さんは語る(垣花武一「あこがれの軍隊—少年兵としての戦闘参加—」『座間味村史 下巻』1989)。
人の命を奪い、人の心を踏みにじって、沖縄の戦争は9月初めまで続けられた。