阿嘉島の人たちが隠れた「スギヤマ」と呼ばれる谷には少年義勇隊の中村仁勇さんもいた。中村さんによると、島の人たちは絶望して皆死ぬつもりだった。敵軍に捕まったらどんな酷い目に遭うかこれまで散々聞かされてきたが、今、まさにそのアメリカ軍が迫ってきているのだ。
当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。(中村仁勇「青年義勇隊」『沖縄県史』)
しかし中村さんの伯父さんが「逃げられるだけは逃げてみよう」と言い出して、一族20名ばかりが谷を離れ、次の日は一日中山の中をさまよった。
夕方になると銃声も聞こえなくなった。島中が静まり返っている。もうみんな「玉砕」しているのなら自分たちも死ぬしかないと思うようになった。しかし手榴弾2個では全員は死ねない。だったら絶壁から飛び降りるしかない。
ところが崖に向かう途中でバッタリと日本の兵隊と朝鮮から連れてこられた軍夫の人たちに出会った。「おや、まだみんな生きているじゃないか」「兵隊が生きているぐらいだからまだ死ぬことはないじゃないか」ということになって中村さんたちは死の脅迫から逃れることができた。「スギヤマ」に残った村の人たちの中にも、「生きられる間は生きようじゃないか」と言う人がいて「集団自決」を免れた。
村の人たちが助かったのは勇気ある一声のおかげだけでなく、偶然も重なっていた。中村仁勇さんは「スギヤマ」を見下ろす山の上に機関銃が据え付けてあるのに気がついている。銃口は島の人たちの方に向けられていた。中村さんは後にこのような話を聞いた。
二十六日の斬込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って、「部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか」ときいたわけです。野田隊長は、「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」と指示したそうです。(「青年義勇隊」)
野田隊長の真意を確かめることはできないが、沖縄第32軍司令官牛島満の訓示から推察できるのではなかろうか。
敵ノ来攻ニ方(あた)リテハ軍ノ作戦ヲ阻碍(そがい)セサルノミナラス進テ戦力増強ニ寄与シテ郷土ヲ防衛セシムル如ク指導スヘシ
防諜ニ厳ニ注意スへシ(大田昌秀『沖縄 戦争と平和』朝日文庫1996)
軍の「足手まとい」になったり、ましてや捕虜となって敵に通じることがあってはならない。それを防ぐには「自決」させるしかない。しかしアメリカ軍の動きによっては、まだ戦力として使えるかもしれない。野田隊長がそう考えたとしても不思議ではないと思う。そしてその時、アメリカ軍は島から離れ始めていた。
結局のところ、アメリカ軍は阿嘉島を占領せずに引き上げた。それ以後はパトロールしたり投降を呼びかけたりするだけ。死傷者を出してまで占領する価値はないと判断したのだろう。
日本軍の機関銃が住民に向かって火を吹くことなく、アメリカ軍の砲撃、爆撃も止まった中だったからこそ、島の人たちの、命を大切にする心が蘇ったのではないだろうか。