「軍都」壊滅64 戦場17 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 波照間島の人たちが強制疎開先の西表島から島に帰ることができたのは1945年8月。しかしマラリアが猛威を振るったのはそれからだった。西表島でマラリアに感染した人たちが次々と発症してバタバタと倒れていった。栄吉おじいの家では一番上の兄が西表島で死に、波照間島に帰ってから姉、弟、妹が死んだ。子どもたちを思って「死なんぞ、死なんぞ」と呻いた父親も死んだ。周りの家も全員が死に絶えたり、生き残ったのが一人だけとか、二人とか…。

 当時13歳の栄吉おじいと16歳の兄は、しばらくは元気だったので遺体の埋葬をかって出た。「真(まくとぅ)そーけーなんくるないさー(正しい行いをしていれば、いつかきっと報われる日がある)」。そう信じて頑張った。

 

 ひとりぐらしのおじいをたずねてみたら、皮が骨にはりついて、まっ黒になって死んでいる。おじいのひとり息子は兵隊にとられて、戦死していたからねえ、ひとりで死んでいったんだなぁ。おじいの肉は、うじ虫がぜんぶたべて、それがハエになって、からがまわりに山をなしている……。おじいをはこびだしたら、からがおじいのかたちをしてのこったさぁ。(下嶋哲朗『そてつ祭り』理論社1981)

 

 栄吉おじいもやがてマラリアに罹ったが何とか持ちこたえた。けれど父親が死んでからすぐに母親も死に、栄吉おじいの家は8人家族がたった2人になってしまった。島のお年寄りと赤ちゃんはほとんどが死んでしまったという。

 島では食べるものにも困った。それでやむなくソテツを食べた。ソテツにはデンプンが含まれているが毒もあり、発酵させて水にさらすのが不十分だと食中毒で死んでしまう。

 『そてつ祭り』の中で「この島では、むかしからかんばつがあると、そてつの木をたべて生きのびてきたからねえ」と語るのは、みつおばあ。おばあの家は家族が18人もいたが、17人が死んでしまって、おばあ一人になってしまった。

 

 ころっと死ぬ人もいれば、病みおとろえて死ぬ人もいる。高熱で気がくるって死んだり、さまよい歩き行方不明のまま、十年もたって骨となって発見される……。ああ、じごくよぉ。ほんとうのじごくよぉ。はてるまは生(いき)じごくよぉ。戦争というものは、何も鉄砲うってたたかうだけではないんだよぉ。(『そてつ祭り』)

 

 戦争が終わって、アメリカ軍から八重山諸島にマラリア治療薬や食料などの救援物資が届いたのは1945年の12月になってから。結局、強制疎開させられた島民のほぼ全員がマラリアに罹り、死亡者は500人近く、島民の3人に1人が亡くなったとみられる。

 兵隊にとられていた米(よね)おじいは戦争が終わって波照間島に帰ることができた。けれど帰ってみれば父親も母親も、二人の姉もマラリアに倒れていて、やがて死んでいった。二人の兄も戦死したので11人家族が5人になった。

 おじいは言う。

 

 生きのこったものは、どうすればいいのか? だまって忘れろ、というのか? そうではない、そうではない!(『そてつ祭り』)

 

 戦争のせいで、軍隊のせいで、強制疎開によって、マラリアは南の島に「生き地獄」をもたらした。このようなマラリアは、「戦争マラリア」と呼ばれた。