糸数(旧姓 石川)裕子さんは1944年4月に那覇国民学校の先生になった。
職員室には大きな世界地図が掲げられていました。日本軍が占領した地には○印が付けられ、戦況はもっぱらその世界地図で把握していました。昭和十九年三月二十二日に南西諸島の防備のため、大本営直轄の軍として第三二軍が創設され、六月下旬以降増強されていきますが、その矢先の七月七日、サイパン島の玉砕の報が伝えられます。私も生徒たちにサイパンがやられたという話をした記憶があります。(糸数裕子「私の生徒は一人も助かりませんでした。寝付かれない夜は、声が聞こえてきます。」対馬丸疎開学童 引率訓導証言記録プロジェクト編「学童疎開船対馬丸 引率訓導たちの記録」対馬丸記念館2010)
サイパン島での敗退が決定的となると、大本営は次の戦場になると予想されるフィリピン、台湾、そして沖縄に多くの兵を送り、沖縄には陸海軍合わせて10万近い将兵がひしめいた。
1944年8月、沖縄の第32軍司令官となった牛島満は、地元の官民指導者に対して次のように訓示した。
敵ノ来攻ニ方(あた)リテハ軍ノ作戦ヲ阻碍(そがい)セサルノミナラス進テ戦力増強ニ寄与シテ郷土ヲ防衛セシムル如ク指導スヘシ
防諜ニ厳ニ注意スへシ(大田昌秀『沖縄 戦争と平和』朝日文庫1996)
沖縄の住民は軍隊の邪魔をしてはならない、それどころか郷土防衛のため進んで戦力とならなければならない。そしてスパイ活動には厳重に注意しなければならないというのだ。それは牛島個人の考えではなく、日本軍全体を貫く方針だった。
サイパン島では日本軍守備隊44000人が死んだだけでなく、民間人も12000人以上が命を絶たれている。それはアメリカ軍に殺されただけではなかった。
当時11歳だった久永義仁さんはサイパン島で奇跡的に生き延び、戦場の惨劇を証言されている。アメリカ軍に追い詰められて崖から海に身を投じる人もたくさん見た。
海の表面が。赤く染まってましたよ。血で。何十人がバタバタバタと飛び込めばその血が赤くなるんでしょう。一人二人じゃないから。思い出したくもないですよ、あれは。
米軍はそれ見て、海上からスピーカーで「死んだらいけません。生き延びなさい」って、放送ジャンジャンする。
Q.日本語でですか。
日本語で。2世なんかがいましたから。2世なんかが。そしたらそれを聞いとって、「あれはデマだぞ、おまえたちを捕まえてあれするためだから、デマに乗るな」って言って日本軍が否定するんですよ。だから日本軍の言うほうを信じて、われわれは敵に、米軍に手をあげなかったですよ。
お前たちを捕まえて女は凌辱するためだと。
実際聞いたですよ。「お前たちはなあ、捕まったら銃剣で突き殺される、銃剣の餌食になるよ」って。はっきりと。それ聞いたら恐怖でね。もう私たちはアメリカ軍に手をあげる気もしなかったですね。(久永義仁「日本兵に殺されたおい」NHK戦争証言アーカイブス)
久永さんは民間の日本人が降伏しようとした時に背後から日本軍兵士に殺されるのも目撃した。
捕虜になるといかん、捕虜になると日本軍の情報が漏れるって殺すんですよ。悲惨なもんですよ、当時の日本軍は。同じ日本人を後ろから狙い撃ちするんだから。捕虜になって我々の内部の情報がアメリカに漏れると困るし、後ろから狙い撃ちですよ。手を上げれば。そんな残酷な日本人の教育だったんですよ、当時は。(久永義仁)