戦争末期には爆弾に見立てた丸太を担いで大八車や張りぼての戦車の下に飛び込む訓練が日本のいたるところで行われたが、硫黄島では本当に爆弾をかついで戦車に突進したという。
爆雷を背負ってですね、20キロ爆弾、爆雷ですね、あれに、戦車の下に滑り込めと、ま、将校の人が命令しおったが、行ったですけどね…爆雷には、導火線に火が着いているわけだから、滑り込まんな仕方ないんです。それも最初はな、成功したんです。成功して、何台かはやったんですけど、後になったら、今度は、戦車は、止まってバックをするですが。バックをしたら、こらタイミングは合わんですがね、なあ。ほでもう、自爆ですよね。何もならんとですよ。それも失敗。(徳田弘「壕にあふれた負傷兵」NHK戦争証言アーカイブス 硫黄島の戦い)
もう他にできることといったら「斬り込み」戦法だけだった。と言っても敵陣に銃剣を振り回せるまで近づくことはできなかった。
こっちもゲリラ戦ですね。ゲリラに移ったんです、ゲリラ戦に。夜だけ、奇襲攻撃ですね。奇襲攻撃ちゅうのも、ただ敵の陣地に行って、手りゅう弾を投げ込むだけ。当たり前、斬り込み突っ込め~つう、銃剣で突き刺すんじゃなくして、手りゅう弾を投げ込んで帰るぐらい。それもな、最初はいいんですよ。だんだん兵隊の人数が減ってくるがね。(徳田弘)
硫黄島守備隊の指揮官栗林忠道が大本営に「今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスル」と電報を打ったのは3月14日。それを大本営が硫黄島守備隊の「玉砕」として発表したのが3月21日で、中国新聞の大佐古一郎さんは翌日の日記にこう書いている。
硫黄島はついに敵の手中に帰した。アッツ島以来、北や南の海でわが軍は玉砕または全員戦死を続けているが、米国内ではわずか一島を奪うのにあまりに犠牲が大きすぎると、同島の作戦に非難の声が高いという。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)
日本軍兵士2万人の命が絶たれたという硫黄島の戦い。政府や軍部は「玉砕」だと言って死を美化し、何事もなかったかのように装った。それが続けば、国民は次第に人の命が失われることに鈍感になっていく。アメリカ軍の戦死者が増えたのでアメリカ国民は戦争に嫌気が差しているなどと言って喜んでいる場合ではないだろう。日本軍兵士はなぜ死ななければならなかったのか。
栗林忠道がアメリカ軍の上陸を前にして部下の日本軍兵士に配った『敢闘ノ誓』がある。
一 我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン
一 我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
一 我等ハ挺進敵中ニ斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン
一 我等ハ一發必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ打仆サン
一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ
一 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン
一人が10人の敵を倒して死ね、最後の一人になるまで戦えというのは、硫黄島だけの話ではなく、後に残る日本軍兵士、さらには日本国民全体に対する、政府、軍の命令でもあった。