「軍都」壊滅51 戦場4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

  先にマニラを離れた山下泰文を司令官とする第14方面軍、約30万人はフイリピン各地に分散してアメリカ軍やフイリピン人ゲリラ部隊と戦った。しかし補給が全くなく、飢えと病気に苦しめられて6月ごろには散り散りばらばらになり、生き残ったごくわずかの将兵が終戦を知ることとなる。

 1945年5月23日、ルソン島北部で一人の日本人兵士が前日まで書いていた日記が押収された。2月にこんなことが書かれている。

 

 毎日、ゲリラと原住民の討伐で過ごす。私はすでに100人以上を殺した。故郷を出るときに持っていた素朴さはとっくに消えうせた。いま私は無情の殺人者であり、私の刀はいつも血でぬれている。それは私の祖国のためだが、まったくの残忍さだ。神よ、私を許してください。おかあさん、許してください。(林博史「日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」『関東学院大学経済学部・経営学部総合学術論叢』2010)

 

 大森喜代男さんは1944年5月ごろからルソン島北部の野戦病院に入院していて、日本軍の敗走が始まると一人取り残されてしまった。

 

 マラリアにかかり、アメーバ赤痢になって、栄養失調になり骨と皮になって『地獄草紙』の餓鬼のようになると腹ばかり膨れてくる。

(中略)

 熱い素うどんを一杯、死ぬ前に食べたかった。うどんが一杯食べられたら死んでもいいとも思った。雨季になった山の中で、栄養失調になって衰弱死を目前にした私は寒かったのだと思う。熱い素うどんを一杯食べてから死にたかった。(大森喜代男「『フィリピン・三笠山』の野戦病院」NHK戦争証言アーカイブス戦争の記憶~寄せられた手記から~)

 

 やがて大森さんは住民に捕まり殺されそうになるが、あまりにも衰弱した姿に一人の女性が同情して命を救われた。

 しかし1964年に当時の厚生省が行った調査によると、フィリピンでは約52万人の日本の軍人・軍属が死んでいるが、そのうち直接戦闘で死んだのは35〜40%で、死者の半分以上が病死、特に病気を伴う餓死が多かったと見られている。(吉田裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』中公新書2017)

 また、フィリピンの人たちの被害はさらにひどいもので、人口1600万人のうち100万人以上が命を絶たれた。

 しかし、このようなフイリピンの惨状が当時の日本国内で報道されることはなかった。中国新聞の大佐古一郎さんの日記には4月16日になって「フイリピンの失陥」とあるだけ。関心はもう本土空襲や沖縄に移っている。

 『原爆詩集』で知られる峠三吉がマニラの惨劇を知ったのは戦後になってからだ。9月16日の日記。

 

 ラヂオニュース中にて比島に於ける日本将兵の人民又婦女子らへの聞くに耐へぬ惨虐暴行行為をこく明に放送する。胸間苦悶、ラヂオを叩き毀したく覚ゆ(事を疑ふこういふニュース皆がだまってきいてゐる・・・)我にも或ひはそのやうな行為ありしならむ。然し敵方にも必ずや無しとは云へぜるべし、これ如何とも防ぐあたはざる戦争の通例なり、単なる勝者の得手勝手なり。(峠三吉「被爆日記」広島大学ひろしま平和科学コンソーシアム  広島文学資料保全の会)

 

 「そんな馬鹿な。でも、例えそんな残虐なことがあったとしても戦争なんだからしょうがないじゃないか」。こんな思いは峠三吉だけでなく、今でも、誰でも、持ってしまうものなのかもしれない。でも、それは死者に対する冒涜だ。