「軍都」壊滅40 広島の軍隊2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 爆心地から北に約1.4kmのところにあった広島逓信病院(現 広島はくしま病院)。眼科医の小山綾夫さんは窓の外に閃光を見たとたん、顔に砂を投げつけられたように感じ、同時に床に叩きつけられた。

 我に帰ってみるとワイシャツが血で真っ赤に染まっている。顔や体が傷だらけになったのは、この病院の建物が当時としてはモダンな設計でガラス窓が大きくとってあったせいもあるだろう。しばらくすると避難していた看護婦が戻ってきて、「まあ、先生大変」と包帯を巻いてくれた。

 その時だった。

 

 どこから来たのか一人の軍人が「○○部隊、これを貰って行く」と叫んで、看護婦が部屋から持ち出してそこに置いていた繃帯、ガーゼを全部抱えて走り去った。いつもの事乍ら、軍の横暴に立腹したが、あとで思うと、壊滅的打撃を受けた軍にとって、あればかりの材料では、全く焼石に水であった事と思う。(小山綾夫「二〇・八・六を憶う」広島県医師会『原爆日記 第I集』1970)

 

 軍隊の横暴はいつもの事だと小山さんは言う。当時広島の一般市民が軍にどんな感情を抱いていたかは興味のあるところだが、まずは「○○部隊」の「壊滅的打撃」の様子を見ておきたい。

 小山さんが「○○部隊」と書くのは、今更秘密にしておく必要もななかろうから、単に部隊名が聞き取れなかったからではなかろうか。その頃の軍隊は、たとえば「中国第一〇四部隊」といった名称に変更されていた。数字が三桁ならまだいい方で、五桁の数字で「中国第三二〇三七部隊」なんて言われたら多くの人は困ってしまうと思う。

 ただ泥棒の軍人はその「中国第一〇四部隊」であってもおかしくはない。広島城本丸跡の堀を挟んで東側、逓信病院からは南に400mぐらいしか離れていないところに兵舎が並んでいたのだ。

 「中国第一〇四部隊」は元々、歩兵第一補充隊と呼ばれた部隊だ。陸軍第5師団の歩兵第11連隊が日中戦争の開始とともに広島を出て行ったので、補充する兵士を訓練し送り出すために新たに設けられた部隊だ。そしてこの部隊にはさらに「ニ部隊」あるいは「西部第二部隊」という通称があった。市民の間では「ニ部隊」が普通だったらしい。

 戦争末期になると名前だけでなく兵隊を訓練する目的も異なってきた。中国新聞記者大佐古一郎さんの1945年1月26日の日記。

 

 町内の大塚さんが、あす応召するといって挨拶に来られる。最近の応召者は四十歳前後で、本土決戦要員として九州、山口方面の部隊へ配属されている。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

  その頃歩兵第11連隊は南太平洋の島に取り残されていて兵の補充をする意味もなかったろうし、そこまで輸送船が無事にたどり着くことも不可能となっていた。そしてもう「本土決戦」が叫ばれる状況だったから、歩兵第一補充隊などで訓練を受ける兵士は皆「本土決戦要員」であり、「特攻隊員」として「根こそぎ動員」されたのだ。

 

 工兵の作業場で、戦車と取り組む体当たり訓練が行われている。笹の葉で偽装した兵隊が壕の中や窪みに身を沈めて、前方に瞳をこらしていると、助教の上等兵が大八車を押して走ってくる。間髪を入れずに兵隊は爆薬筒をかざして飛び込むが、響き渡るのは班長と助教の叱る声だけ。(『広島昭和二十年』)