「軍都」壊滅32 軍需工場18 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島市祇園町公民館発行の『原爆と祇園町』には第20製作所の航空機エンジン製造について次のように記されている。

 

 昭和二十年初頭から同年末の生産目標を“瑞星”千九百馬力の航空機エンジンを月産百五〇基とし、生産準備に着手した。瀬田所長をはじめ設計工作陣が、いくつかのグループをつくって、交代で名古屋発動機へ出かけ、技術の勉強にあたった。(広島市祇園町公民館『原爆と祇園町』1986)

 

 文中の「名古屋発動機」とは三菱重工名古屋発動機製作所のことで、中島飛行機武蔵野製作所とともに当時の日本の航空機エンジンの主力工場だった。

 1944年末、三菱重工全体で航空機の機体やエンジンの生産数が激減した。その原因は、一つには1944年12月7日に起きたマグニチュード7.9の「1944年東南海地震」による被害が大きかったためだ。死者は東海近畿で1200人を超え、三菱重工関連では名古屋航空機製作所の工場が1棟倒壊して64人の死者を出している。

 そして12月13日、今度はB-29爆撃機90機が三菱の航空機エンジン製造の中枢である名古屋発動機製作所大幸工場(三菱発動機第四工場)を襲った。この時は高高度からの爆撃で命中率は低かったようだが、4月まで計7回の空襲で工場は壊滅する。広島の第20製作所の技術者らは必死の覚悟で名古屋に出張したことだろう。

 こうして広島の第20製作所で「“瑞星”千九百馬力の航空機エンジン」の製造を引き受けることになったのだが、ところが、ネットで調べた程度ではあるが「瑞星」という名で出力が1900馬力のエンジンが見つからない。

 「1900馬力」であれば、第20製作所で製造することになったのは三菱が新しく開発した「ハ-43」というエンジンではなかろうか。

 この大馬力のエンジンを「震電」や「烈風」という新型戦闘機に搭載してB-29爆撃機を迎え撃つはずだった。が、まだ戦闘機の試験運転しているうちに戦争が終わったという哀しいエンジンである。

 第20製作所では航空機エンジンを月産150基というから年間では1800基生産するはずだった。しかし、終戦の8月までに完成したのは計画の三分の一にしかならない400基。その原因の一つは工場の分散疎開だろう。工場疎開はエンジンの製造開始と同じ1945年1月から始まった。

 

 ガソリンの欠乏でトラックの手配が思うようにまかせず、可部街道を牛車でノロノロ運搬する状態で、工場疎開の作業はいっこうにはかどらず、どの疎開工場もほとんど生産らしい生産は行わずじまいで終戦を迎えた。(『原爆と祇園町』)

 

 中には部品を疎開するのに工場から4kmも離れたニワトリ小屋を借りたこともあって、こんなことではニワトリと同じように飛行機も空を飛べなくても不思議ではないと嘆いたとか。

 そして1945年9月、GHQの命令で完成していた400基のエンジンは焼却された。

 一方、名古屋の航空機組立工場ではエンジンやプロペラの供給不足が深刻な状況で、戦争が終わるまでの最後の数か月間はエンジンがない「頭なし」の機体が作られ続けたという(佐藤達男「太平洋戦争期中島飛行機の機体事業と生産能率」『経営史学50-3』2015)。まさに「骨折り損のくたびれもうけ」だった。