「軍都」壊滅22 軍需工場8 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 呉海軍工廠が空襲で壊滅して「回天」の組み立てが不可能となれば、三菱重工広島造船所でいくら部品をがんばって造っても無意味だったことになる。結局、原爆が投下された時に広島造船所でちゃんと造っていたのは輸送船が1隻。この船だって、完成したらどこへ何を運ぶつもりだったのだろうか。

 日本各地にあった三菱重工の造船所で1941年から45年まで貨物船やタンカーがどれだけ建造されたかの資料がある。これを見ると、長崎造船所が群を抜いていて43隻約39万総トン。これに続いて神戸造船所が31隻約19万総トン、横浜造船所が28隻約16万総トン。これに対して広島造船所はわずか7隻約5万総トンだった。広島機械製作所、広島造船所を狙った空襲が一度もなかったのもこれで頷けよう。(浜淵久志「太平洋戦争期における三菱財閥の再編過程(2)」『北海道大学 経済学研究31(4)』1982)

 これに対して長崎造船所は空襲にみまわれているが、ただし大きな被害が出たのは1945年7月29日と8月1日だった。当時長崎造船所製缶工場で働いていた吉川勝己さんの証言がある。

 

 防空壕は班ごとに指定されていた。空襲警報が発令され、一番近い壕へ。しかし満員で入ることを断られ、なんとか隣の班の壕に潜り込んだ。ほっとしたのもつかの間、激しい振動に襲われ、壕内は崩落。海水が流入してきたため脱出すると、目の前の光景にあぜんとした。最初に満員だった壕は跡形もなく、爆弾による大きな穴だけが残っていた。(「長崎新聞」2013.7.29)

 

 どうも空襲するのに、どこの造船所も後回しにされたようだ。サイパン島、テニアン島、グアム島から飛び立ったB-29爆撃機が一番最初に狙ったのは東京郊外の中島飛行機武蔵野製作所。1944年11月24日だった。続いて12月13日、三菱重工業名古屋発動機製作所が攻撃された。

 1945年になって1月19日には兵庫県の川崎航空機工業明石工場。3月初めまでにあった主な本土空襲20回のうち、16回の標的は航空機工場で、中でも航空機エンジン工場が多かったという。(「神戸新聞NEXT」2021.8.14)

 そのころの空襲は高空からピンポイントで軍事施設を狙う「精密爆撃」だった。しかし強風のため命中率が悪く、以後何度となく同じ軍事工場に空襲が行われる。

 そしてついにアメリカ空軍は成果の出ない「精密爆撃」をあきらめ、市街地に低空から大量の焼夷弾を投下して市民を無差別に殺害する「無差別爆撃」に方針を転換した。その皮切りが3月10日深夜の東京大空襲。当時12歳だった早乙女勝元さんは焼夷弾の火の海の中を必死に逃げた。

 

 そのときだった。赤紫の炎のさけめから、B29が一機、電柱にでもぶつかりそうな超低空で、一直線につっこんでくるのを見た。その翼が、血のしたたるようにギラギラと赤い。

 「あ、落ちてくる!」

 私の一歩前にいた男は、顔をのけぞらしてさけんだ。

 ごしッ!と耳の破れたような音。地底にひきこまれそうな爆音。あわてて閉じたまぶたの裏に、金色の閃光がはしる。

 焼夷弾は、落ちてくる――とさけんだ男ののど首に、火をふいてつきささった。その横を走ってきた女の左肩をかすって、電柱にささりこみ、あっというまに、あたり一面を地獄絵図に変えてしまった。(早乙女勝元『東京大空襲』岩波新書1971)

 

 4月、三菱重工広島機械製作所、広島造船所は工場疎開を始めた。これでさらに生産力が落ちていく。