「軍都」壊滅18 軍需工場4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 三菱重工広島機械製作所が1945年4月から新たに製造することになったのは航空機、それも敵艦に体当りして自爆するという特攻機のエンジンだった。

 有名な「神風(しんぷう)特別攻撃隊」が編成されたのは1944年10月だが、年が明けて1月24日、小磯国昭首相は施政方針演説の中で次のように述べた。

 

 いまや戦局は彼我根比べの決戦段階に突入した。特攻隊に続き一億同胞憤激を新たにし、万難を排して一意戦力の増強に邁進し、銃後の責を果たすべきである」と述べ、さらに千辛万苦に耐えよ、航空機を増産すべし、生産と防衛を一体化せよと強調した。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 当時の日本政府や軍部は、戦争をするにはもう航空機、特攻兵器に頼るしかないと考えていたのだろう。

 1945年7月、広島機械製作所に「半島応徴士指導員」として入社した深川宗俊さんは、広島機械製作所、広島造船所での新たな兵器の生産命令についてこう証言している。

 

 四五年四月一日、両工場にたいして、第二回目の行政査察の結果が示され、それまでの海軍艦船本部商船班所管の作業から特攻兵器と航空機の機器生産の作業へ転換せよ、という命令が下された。呉市広の第十一空廠から図面をもらい、ネ二〇型ジェット戦闘機(小型肉弾用戦闘機)エンジン、特殊潜航艇等の生産をせよという命令である。(深川宗俊『海に消えた被爆朝鮮人徴用工―鎮魂の海峡―』明石書店1992)

 

 「ネ20型エンジン」は、特攻機「桜花」や「橘花」のためのターボジェットエンジンだ。

 特攻機「桜花」は、もともと爆弾を先端に付けて人間が操縦する特攻グライダーだった。「一式陸上攻撃機」などに搭載され、敵艦に近づくと母機から切り離され固体燃料ロケットで加速して突っ込んでいく。1944年10月に「桜花」に乗りこむ特攻部隊、通称「神雷部隊」が編成されて実戦に投入された。

 

 南西基地から帰還したばかりの作家川端康成が語っている。

 「神雷こそ恐るべき兵器だ。この兵器が前線に来たとき、わが精鋭は勇気百倍した。これさえあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑にすると…」(『広島昭和二十年』)

 

 しかし実際には重たい「桜花」を搭載した母機は速度が遅く運動性能も落ちてアメリカ軍機に狙い撃ちにされた。それで今度はジェットエンジンを積んで自分で飛び立てるようにしようとしたのだ。これが成功したら「桜花」はより高性能な飛行機に近いものになるはずだった。

 「ネ20型エンジン」の開発は横須賀にあった海軍航空技術廠が中心となって進められた。が、耐熱材料に必要なコバルトやニッケルが確保できないなど多くの難問を解決するのに時間を費やし、「ネ20型エンジン」を搭載した「橘花」の初飛行実験は1945年の8月7日。飛行実験はその1回だけで終戦を迎えた。(永野治「戦時中のジェット・エンジン事始め」日本鉄鋼協会『鉄と鋼64巻5号』1978)

 となると、広島機械製作所で担当したのは「ネ20型エンジン」の完成品製造なのか部品の製造なのかわからないが、いずれにしても到底モノになったとは思えない。でも、それでよかったのではないだろうか。いくらかは人命を粗末にしないで済んだのだから。