1945年8月3日、日本の病院船「橘丸」はオーストラリア北方のバンダ海でアメリカ軍駆逐艦から停船を命じられ、「臨検」によって武器と戦闘員を輸送していることが発覚した。赤十字のマークを付けた病院船が武器や戦闘員を運ぶことは明らかな国際法違反で、「橘丸」は拿捕され乗船していた広島歩兵第11連隊第1大隊、第2大隊など総勢1562名が捕虜となった。
これらの部隊はニューギニアとオーストラリアの間にあるカイ諸島の防衛に当たっていたのだが、アメリカ軍は1944年6月に北太平洋のサイパン島に上陸し、1945年に入るとフィリピンのルソン島に上陸、4月には沖縄本島に上陸して、南太平洋の島々にいた日本軍は「蚊帳の外」となっていた。
そこで次にアメリカ軍の攻撃が予想されるシンガポールあたりに転戦することにしたのだが、兵士や武器を病院船に乗せるという違法行為に走った背景には、そのころの日本にはもう、まともな輸送船がなかったということがある。1942年6月のミッドウエー海戦や1944年6月のマリアナ沖海戦などで多くの航空機や艦船を失った日本軍は太平洋での制空権、制海権を失い、日本の輸送船はアメリカ軍の潜水艦や航空機に次々と沈められていったのだ。
輸送船が沈没する時の様子を島根県出身の神在繁さんが証言している。神在さんは1943年9月6日、捜索第5連隊(騎兵第5連隊を自動車部隊に改編)の補充要員の一員として輸送船「鹿島丸」に乗り宇品港からシンガポールに向かった。9月13日、同じ船団の「大和丸」が東シナ海でアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃で沈没。「鹿島丸」も27日朝、南シナ海を航行中に魚雷が命中して船はあっという間に傾いていった。神在さんはひとり海に飛び込んだ。
平素の訓練で、百メートル以上逃げていないと船に巻き込まれると聞いていたので死に物狂いで泳いだ。五~六十メートルも離れた時だった。大音響と共に船体は船首を上に縦になって波間に消えていった。(神在繁「濠北派遣捜索第五連隊―海難、ニューギニア防衛戦―」平和祈念展示資料館「労苦体験手記」)
「鹿島丸」は1万トンの大型船で約1600人の将兵が乗っていたと見られる。船の沈没によって海には巨大な渦巻きができ、兵士やボートを海中に引きずり込んだ。
神在さんらは夕方になってやっと救助されたが、神在さんによれば、兵隊になったばかりの240名あまりの若者が波間に消えたという。
堀川惠子さんの『暁の宇品』には、太平洋戦争で日本の船舶がどれほどの損害を被ったかが記してある。
戦争1年目 96万総トン
戦争2年目 169万総トン
戦争3年目 392万総トン(堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』講談社2021)
数字の奥には莫大な人数の兵士と船員の死が隠されている。
また船が沈没すれば武器も食糧も全部船とともに沈んでしまうが、「鹿島丸」の沈没で生き残った兵士はそのままニューギニアまで送られ、各部隊に配属された。
武器や食糧の補給もないままジャングルの中に連れて行かれたらどうなるか。神在さんらは1946年6月に復員するまで、アメリカ軍の空襲だけでなく、飢えとマラリア、赤痢などの伝染病に苦しめられ、多くの兵士がバタバタと病死していったという。日本の軍隊はもしかして、自軍の兵士の命を奪うことを目的としていたのだろうか。